新 尼 の 散 歩 道  目  次                             

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著者紹介

参考文献

昭和5211 
 1、明治18年ごろの尼崎
 
 私たちが生活している尼崎は、古い歴史をもつ街です。古くは弥生時代から、中世・近世・近代へと、その時代を構成し生きつづけ現在に伝承するものや、また遺跡や史料として残したものもたくさんあります。その時代を掘りおこし時代背景も合わせて連載することにしました。
 第一回として、明治18年に測定された付近の地図です。
 中国街道・尼崎城を中心に人家が集まり南部に新田、北部に点在する村々は農業を中心に生計をたてていて、東西に日本で二番目の鉄道(大阪・神戸間現在の東海道本線)があり、長洲停車場(現国鉄尼崎駅)から北へ川辺馬車鉄道(現福知山線)が走っています。 明治22年、町村制により、尼崎町、大庄・武庫・立花・園田・小田と村制がしかれています。 

  雑 感

 尼崎には古いものがある。連載するには古いものからがよいのでは・・・と、思いたったが、力不足で捜し出せない。色々取材して結論に達したのが、第一回目に載せた地図。
 尼崎市立中学校の副読本になっている「尼崎の歴史」が参考になった。すでに鉄道が走り、今の商工都市尼崎とちがい田園風景も、偲ばれる。武庫川も本流から支流もあり、現在の地名で残っているところには、村が点在している。
すべり出しは、これだと思ったのですが。  (S60年秋・齊藤)        戻る

昭和53年1月
   
2、田能遺跡    地図
   弥生式時代

 尼崎の東部を流れる猪名川左岸(園田競馬場の北)に、12年前発掘された、田能遺跡があります。弥生式時代(約2200-2300年前から始まる)のほぼ全期間(約500~600年間)に、私たちの先祖が生活していたと出土品や遺跡で分かりました。
 採集生活から田能に定住して、稲をはじめ狩、魚、貝などで生活し、遺物が大量にでています。石器から鉄器へ、壼・かめ・鉢や、装身具としてガラス玉や首飾り・腕輪も使用していました。
 家としては円形平地式二軒、円形竪穴式一軒が確認され、あとは分かっていません。工業用水工事中に発見され、当初遺跡保存の方針が無く、多くの人々が遺跡を破壊から守り、永久に保存する運動に立ち上がり、家屋の復元と資料館が建てられ、広く市民に開放されています。
  雑 感
 大昔、尼崎の大半は海であったと知った。田能遺跡へ行こう。行って見て驚いた、保存されている遺跡が狭い、あまりにも狭い。保存運動がおきてこの広さ5219㎡。写真の復元家屋もかなり傷んでいて、こちらの心が痛む。国の指定史跡なっていて、この現状。
 しかし、保存された事が嬉しく、弥生時代の

人々の生活実態が手に取る様にわかり、粗食な人生や、と思えた。   戻る

昭和533       3、西武庫公園  地図

 尼崎市の北部、武庫川沿に花と緑と水の西武庫公園があります。ここは兵庫県が各地の公園を参考にして昭和40年につくったもので、面積22000坪(甲子園球場の約2倍)年間100万人もの利用者があるという市内最大の公園です。
 公園の中には武庫川からわき出る清流を利用してつくった池があり、二羽のあひるとたくさんの鯉が泳いでいます。
下流には子供たちが水遊びできる「じゃぶじゃぶ池」、ゲームやボール遊びなどができる「芝生広場」がつくられています。
ミニチュア都市の交通公園もあり信号機、踏切り、交通標識があり職員の指導で遊びながら交通知識を学ぶことができます。
 公園内には、つげ、けやき、プラタナスなど7000本もの樹木があり春になると600本の桜が咲きみだれ花見の人でにぎわいます。
 また花木園を中心にチューリップ、バラ、菖蒲、ススキなど四季折々の花々が家族連れなど入園者を迎えてくれます。市内にも、こんなに広く、ゆっくりくつろげる公園があるのです。花と緑と清流が心を豊かにしてれるでしょう。 

 雑 感
 訪ずれたのは、良く晴れた日であったが、とにかく寒かった。事務所へおもむき、色々聞いた。一緒に歩きながら、親切に教えていただいたお年寄は忘れがたい。
武庫川の伏流水を利用した池には見飽きない。きれいな、冷たいわき水がよい。小さな砂をふき上げながらわいている。そこには、藻はなく、白い砂ときれいなわき水があり、いつまでも見ていたかった。(S60年秋・齋藤)   戻る

昭和

535 4、さつき展
    市民に喜ばれる無償苗
 皐月(さつき)の季節となリました。
尼崎の名物となったさつき展が、尼崎皐月協会・尼崎市・尼崎市緑化協会の主催で開かれます。昭和三十八年から、かぞえて今年で、25回目を迎えます。期間中、会員(約400人)の中から、日頃丹精こめた美しい色とリどりの自信作品が展示され、逸品は圧巻そのものです。
 また、即売コーナーも設けられ、見ごたえのある美しいさつきが、市価の半値ぐらいで購入できるそうです。苗木もふくめ5千鉢ぐらい、毎年用意されています。
 その上、市民が一番喜ぶのは「無償苗」がもらえることです。日曜日の午前九時から先着3000名ぐらい用意されていて、会場には長蛇の列が毎年でき、受けとる人の喜びあふれた光景が見えます。
 会員の協力でよい「鉢もの」が出品されることを反映してか、遠く九州をはじめ、西日本全体からこられる人もあるそうです。会場では、いろいろな相談も受けられ、素人さんも大いに歓迎されています。
昨年は30万人が入場し、終日大盛況だったそうです。また協会として、グループの依頼要請があれば出張指導、講習会なども行っているそうです
  
 
  雑 感
「季節物」と考えていた矢先、さつき展”が開かれると耳にした。尼崎皐月協会会長宅へもおしかけ、ご迷惑をおかけした。「人の心は、花木の心に通じる」様なお語しを聞いた事を思い出す。会期中会場にも出かけたが、自信作品がずらり出品されていて、圧巻そのものであった。いうまでもなく「無償苗」をいただいたが、枯れて今はもうない。面倒みいが悪い。さつき展があると思い出す。
(S60年秋・齊藤)   戻る

昭和53年7月       

5、中国街道 ⑤地図
わが尼崎は、早くから開けた町であり、その中でも阪神電鉄尼崎駅の南の方がいちん古く、尼崎市発祥の地であります。
 明治42年(66年前)の地図を見ますと「川辺郡尼崎町」とあり、北竹谷町のあたりから蓬川までは、ほとんど水田で農家が点在していたに過ぎません。現在の竹谷小学校の北側の道路は、今でも「旧国道」と親しまれていますが、当時は中国街道と呼ばれて、西は琴浦神社、武庫川、西宮小松の岡太神社へと続き、東は、学校の東北端の辻から東へ進み、南下して西本町から寺町へと続いていました。今でも竹谷派出所から東120メートルの四つ辻に、昔の道しるべが立っています。147センチの高さの御影石の大きな立派なもので、昔の面影を残しています。弘化3年と彫まれていますから、ちょうど江戸時代の後期、今から129年前に建てられたものです。 
  思い出

 倒れかかっていた道標は、少し位置を変えて建て直されました。というのは写真で見られる建物がなくなり、新三和商店街に入る道路にそってきれいに整備されたものです。
 その昔西本町から出屋敷にかけてとても栄えた町です。戦後もまず出屋敷にバラックの店が立ち並び、そこから現在の新三和商店街へと続いていたそうです。「地盤沈下」した出屋敷の復興をねがわずにいられない気持でいっぱいです。     (S 60年秋・山神)     戻る    

昭和53年9月     

6、広徳寺  地図
 今回は、寺町にある秀吉ゆかりの寺、広徳寺を訪ねました。そもそも寺町というのは、元和3年(1617年)に、戸田氏が尼崎城を築城し、城下町を建設するにあたって、新尼崎城区画内となる地区にあった寺々をはじめ、尼崎の各町内にあった寺々が城の西に移し集められ、ここに寺町を形づくることとなった。
広徳寺は、最初尼崎近郊大物の庄にあった。羽柴秀吉が、備中高松城を水攻めに毛利軍と戦っている時、本能寺の変が起った。
秀吉は、信長の弔合戦のため、京都へ向かう途中尼崎にさしかかり、敵智光秀の伏兵に包囲された。その時、行く手に広徳寺の山門が見え、とっさに山門に逃げこんだ、この時、秀吉を助けかくまった功績により広徳寺は、秀吉より300石の寺領を受け、朱印を得たと伝えられている。当寺には、危難の時に秀吉が用いたという、摺鉢と蓮木が所蔵されている。 

思い出
 阪神尼崎駅のすぐ南西にある寺町。その中でもこの広徳寺付近は、いつ通っても門を閉ざして辺たりは閑寂として一歩ここから外へ出れば繁華街。都会の中で寺町らしい雰囲気をもった場所はここだけですね。(山神)     戻る   

昭和53年11月      

  7、寺町界隈   地図

三和市場の雑踏から、ほんの少し東へ行くと、閑静とした寺町があります。

 お天気のよい昼下がりその寺町の土塀づたいにのんびりと歩いていると何だか江戸時代にもどったような錯覚におちいります。
戦火をのがれて、風雪にもたえ。半分かたむきかけた土塀。また、最近修繕されてきれいになった塀もあり、時々、子供たちの声が「ワアーツ」と聞こえてくるだけで、ほんとうに一人で歩いていると誰かによりそいたくなるような静かな町です。
 近所の人の話では、普段の日は静かですが、お彼岸には、この道もお参りの人たちでにぎわうそうです。
 真言宗、浄土宗、禅宗等あらゆる宗派のお寺がありますが、比較的新しい浄土真宗のお寺だけはないそうです。
前回掲載された廣徳寺もその町の一角にあり、道をへだてた向こう側に本興寺があります。記者が訪ずれた11月1日は、たまたま年に一度の「宝物虫干会」が催され、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公御自筆の掛軸や、徳川時代の御朱印状の入った文箱、家康公の御愛用になった茶わん等、いろいろ展示されていました。
  
思い出
 東から全昌寺、本興寺、広徳寺、甘露寺、法園寺、大覚寺と並び、広徳寺の裏筋に東から常楽寺、善通寺が並び、大覚寺の表筋には、長遠寺、如来院、専念寺と11ケ寺が軒をつらねています。 (山神)         戻る     

昭和54年3月  

8、西武庫十三重塔  地図
 お天気のよい、ある日曜日、宝塚行きのバスに乗り、武庫之郷で下車。にぎやかな商店街を西へぶらぶら歩くと西武庫公園へ出ました。
 以前、この欄で報道しましたように、尼崎では唯一の交通公園であり、小学校の見学場所としてまた、これから春が訪れるとお花見の場所としても絶好です。
 そこから南へ、西武庫団地を横目で見ながら約300メートルほど歩くと武庫川の東岸にある、須佐男神杜境内に「西武庫十三重塔」が建てられています。鎌倉末期の元応2年の年号があり、神主、三室某が両親の供養のために建てた供養塔です。花こう岩製で軸石には阿弥陀如来像や、地蔵菩薩像が刻まれています。ちなみに県指定文化財です。
 ここは、尼崎のサイクリングコースの中の1コースでわずか2~3時間で楽しめるコースです。これからだんだん暖かくなります。家族ぐるみで楽しんではいかが。 
 随 想
 今から5年程前、小学校五年生だつた息子を連れて、伊丹の近くにある場所を取材に行ったのですが、どうしても目的地が見つらず途方にくれて、交通公園の近くまで帰って来たのです。原稿〆切も迫っていてやはり今日中に何とかしなければと気がはやり、近所の方に聞いたところ公園の近くに西武庫十三重塔があるとの事。急遽変更して文句タラタラの息子をひつぱつて取材に・・・。未だにその時の事をチクリと言われます。(S60年秋
 今回の地震で塔は倒れて、その周りに散在、本殿はとり壌され、常夜燈も倒れ、石が飛び散って、地震の強烈さを物語っています。 
(H7年秋・山神)  戻る

昭和54年7月    

      9、近松門佐衛門 ⑨地図 

 梅雨のあいまのよく晴れれた午後、久々知にある広済寺と近松記念館を訪ねました。このお寺は、日昌上人が法華経の道場として再興した禅寺であります。
 かの有名な、「曽根崎心中」や「心中天綱島」等心中ものをたくさん書いた江戸の文豪近松門左衛門は、日昌上人と深い親交があり、このお寺にたびたび訪れて執筆したといわれています。没後はこの広済寺に葬られ、お墓は樹齢250年というモチの木の大きな根元にあり、ひっそりと雨風をしのいでいる様に小さな墓石が建っています。

 お寺自体、現代的なまわりの環境の中に、ぽつんとわびしく忘れられたように感じられますが、近松の墓の前で手を合わせると、まわりの雑音から閉ざされて、何かホッとするような気がします。

ちなみに昭和41年3月、国の史跡に指定。その朽ちかけた寺の隣りに近代的な建物、近松記念館があります。ここは「大近松250年祭」にあたる昭和48年に計画され、昭和50年11月22日の近松命日に完成されました。約60点の近松遺品が展示されているのをはじめ、二階には浄瑠璃の舞台ホールがあります。毎年11月22日の命日には盛大に近松祭が行なわれます。昨年は中村鴈治郎等が来て、大いににぎわったものです。 
  
思い出
廣済寺の境内、本堂脇の墓地には高さ50センチ程の緑泥片岩の自然石があります。
      あのくいんぼく にちいちぐそくこし
表面には、「阿褥院穆い日一具足居士」と彫られています。生前、近松門左衛門が自分でつけた戒名であり、辞世にも残されているものです。裏に享保9年11月22日の寂日が刻まれています。享保九年は1724年ですので260年前のことです。  戻る

昭和54年9月      

              10、市内5ヶ所のポール  地図
 空は澄みきって、ぐーんと高くなり、静かにおちついて充実した季節。芸術・スポーツ・食欲の秋とおしゃれの秋・・・秋にもいろいろありますが、もつ一つ忘れてはならない台風の季節でもあります。
 ここ尼崎市は、大阪湾の奥深くにあるため、風が北上してきた場合、高潮の猛威を最も受ける宿命的な位置にあり、その上、年々の地盤沈下のため、海岸の近くでは海面よりも低くなったところができ、海水が堤防をこえて町に流れこんできて、住民の生活は恐怖にさらされていました。昭和9年9月、室戸岬、徳島、淡路島を経て尼崎附近を通過した「室戸台風」は想像に絶するもので、死者145人、行方不明7人、中でも城内及び小田地区では、小学校の倒壊による児童と先生の災害死者が相当に出たそうです。
 また、昭和25年9月、室戸岬東方四国を経て、淡路島、神戸へ上陸した「ジェーン台風」は国鉄東海道本線以南を泥の海と化し、その惨禍は目を覆うばかりであったそうです。

ジエーン台風の後、高潮対策を根本的なものとするため延長約12キロメール、30億円の経費をもって昭和31年大防潮堤が完成しました。
 現在、市内に五力所、「室戸、ジェーン」台風の浸水の悲惨さを物語るポールが立っています。見かけたことはありませんか? ふだんは何気なく見過ごしてしまうポールも、台風シーズンがやってくるとあらためて見なおす気持ちになります。

■市役所、■国鉄尼崎駅南口、■阪神尼崎駅南北、
■城内児童館西側、に写真のようなポールが立っています。
(山神一子) 戻る 

昭和54年12月          

11、 残念さんの墓  地図
 線香の煙がたえない
 幕末から明治維新にかけて、いくつかの戦いがありましたが、その中の一つに蛤御門の戦いがあります。この戦いに敗れた志士たちが長州へ落ちる途中、各所で捕えられました。山本文之助も尼崎藩兵に捕えられ、尼崎の北口御門の牢舎で「ああ残念だ!」と連呼しながら割腹自殺したといわれ、その後、里の人がその心情をくんで杭瀬・二の坪(産業郷土会館東側)に葬って、その霊を慰めたので、誰いうとなく「残念さん」と呼ばれるようになったそうです。現在では、この残念さんのお墓は「願かけ神様」として、多くの人々がお参りにくるそうです。悩み事が少しでも軽くなるように、そして残念なことにならないようにとお参りにくる人があるといいます。
 また、昭和何年の項からか、入学試験の神様としても有名になり、新聞などに記事が出てからは入試時期になりますと残念さんのお札を貰いにくる親子が相当の数にのぼるそうです。

墓守りのおじいさんはこう云っていました。「山本文之助他、何人かの人が殺されたのに何故この人だけがこの地にこうして手厚くまつられるようになったのかは、やはりこの人の人徳ではなかったか。だから人間、人が見ているかいないかにかかわらず良いことをしていれば、きっと後世にむくわれるのではないかなあ・・・」と。
 残念さん墓には、山本文之助の魂がまつられているので願いをかければ必ずかなえられるそうです。13年ぶりに親と子がこの墓の前で再会した話しも実際にあるそうです。 今では観光地の一つとして遠くから団体客も訪れ線香の煙が絶えることがないとか。 哀愁を誘うこの破念さんの墓にお線香をともして、墓守りのおじいさんの言葉を思い浮かべながら墓地を後にしました。(山神一子)  戻る

昭和55年2月                            

  12、遊女塚  地図
  いにしえへ心をはせさす古い墓石
 尼崎の東、神崎川をまたぐ新幹線のふもと大字神崎にこじんまりとこぎれいな遊女塚があります。梅ケ枝公園の一隅に、史跡遊女塚と黒々と御影石に刻まれた碑が目に入ります。その後方に玉垣に囲まれ、風雪に耐えた墓石(元禄5年の銘あり)の南無阿弥陀仏が古いいにしえへと心をはせさせます。
 ―鎌倉初期の建永2年(1207)宮城ら遊女が法然上人に、河竹(遊女)の身で罪業の深いことを懺悔し訴え、法然が仏の教えをとき、念仏をとなえると、5人の遊女らは涙を流しつつ入水した。人々は川岸にねんごろに葬り遊女塚とよんだ― と伝承しています。

その後、荒廃と修築がくり返され、工場、新幹線の出現のため、今の梅ケ枝公園におちついたといいます。郷土史家の田中大庄次郎さんの提唱で8月の盆に、遊女の供養のため「神崎川の水祭り」が31年から行われました。神崎川の工事のため一時中止していますが、今も昔もかわらずあわれな遊女を葬い供養し続ける、いつの世の人々の心が身にしみて感じられ、何かしら大切なものがここにあると思われました。

寒風ふきすさぶ1月中旬、遊女塚にたたずみ合掌したとき、新幹線のものすごい騒音にすべてがかき消され、時代の進歩のいたずらが気にかかり、遊女のあわれさを一層深める思いは私一人ではないでしよう。齊藤和義
 参考資料 尼崎市史 小田村勢 戻る

昭和55年4月        

13、 水堂古墳    地図                              尼崎にも前方後円墳があります 

市内水堂町1丁目の須佐男神社にある、南面の前方後円墳を訪ねてみました。
 この古墳の敷地は、弥生後期の集落址であり、弥生後期遺跡の上に盛土をして古墳を築造した、近畿地方でも数少ない粘土榔古墳であります。
一図表参照一

 発掘調査の結果、割竹形木棺が発見されました。朱塗りの棺内には、頭を北にした(いわゆる北枕)人骨が骨粉状で遺存し、歯などは比較的よく残されていたそうです。副葬品は、その人骨の両側に鉄刀、鉄剣二本がおかれていました。その他にもいろいろなものが埋葬されていて、弥生古墳時代を通じて、強力な豪族がこの地域にいたことを物語っています。

水堂古墳から約250mほど歩いたところに、代官所があります。この代官所屋敷は、江戸末期から明治初年の廃藩に至るまでの、旗本青山氏の地方代官所で、摂津八ヶ所(尼崎市水堂、潮江、浜のそれぞれの一部、次屋、西宮市の一部)の管轄統治したところであります。
 明治、大正の両年間、昭和41年と3回に渡り、改築移転が行なわれ、建設当初のものとはいい難いが、門がまえ、敷台の形にはやはりその昔の代官所時代の面影が残っていて、今では人気のない大戸ロは閉ざされたままで、昔がしのばれます。(山神一子)
 参考資料;尼崎市史  戻る 

昭和55年7月
    14、 長遠寺⑭地図遠寺
 桃山時代の面影をつたえる“誇り”
 日恩上人が観応元年、(1350年)七ツ松に創設したと伝えられ、1620年戸田氏鉄が尼崎城を築城する際、城下町整備のため、現在地である寺町に移されました。身延山を総本山とする日蓮宗の寺院として京郁以西では、最初に建てられた寺であり、かつては本堂、多宝塔、鐘楼など七つの建物をもつ七堂伽藍を具備し、子院十六坊を数えたと伝えられ、門前の市場は長遠寺市場として、栄えたといわれています。これだけの寺は、全国的にも数少ないそうです。織田信長や豊臣秀吉とも、深いかかわりをもつ寺でもあります。
 昭和40年、兵庫県の有形重要文化財に、また昭和49年には、本堂と多宝塔が国の重要化財に、それぞれ指定されました。この事について当寺院のオジュッさんに聞きました。―重要文化財に指定され、責任を感じてしんどい事は……と聞きますと、「いえ、私はほこりに思うとります」と即座に答えられました。また、「寺の修理代など国はだしてくれはるが、県は指定しただけで全然めんどう見てくれはれへん。けど当寺は、檀家がこの阪神地区には相当あるからやっていける」とも語られました。なかなか気さくなオジュッさんで、600年間で40代目だそうです。オジュッさんに別れを告げて本堂を見ると、あちこちに「危険、頭の上注意、瓦落ちる」などのたて札があり、なるほど相当に老朽化しています。建てられてから350年余り、そのままで良く持ちこたえ、波乱万丈の世を見きわめたことでしよう。それだけに、安土桃山時代の面影を、今日に伝える貴重な存在といえるのです。 (山榊一子)戻る

昭和55年9月         

15、貴布禰神   地図

昔は雨乞いの神様 今は産業発展の神様
 今回は、私の住んでいる出屋敷の近くにある貴布禰神社を訪ねてみました。
 ちようど1カ月ほど前の8月1日、2日のお祭りには、相当なにぎわいを見せたものです。この大祭には、二日間にわたって、各町内からひき出される「ダンジリ」の勇壮なおはやしにさそわれて、夜遅くまで参拝者の列がつづきます。境内には、夜店がたちならび、おとなも子どもも楽しんでいるひとときは、夏の尼崎の風物詩ともいえるでしよう。
 この貴布禰神社は京都鞍馬にある貴船神社の御分霊を奉斎する、全国約500社を数える中の一つであり、かなり格式の高い神社であるそうです。古くから雨乞いの神様とされ、江戸時代にはたびたび雨乞い神事を行ない、その霊験あらたかであったことが、御祈願所の記録に残されております。現在は産業発展の守護神でもあります。阪神工業地帯のど真ん中に位置して、尼崎の神社の中でも、一番広大な面積を要し、子どもの遊び場として、格好の場所になっているようでした。
 尼崎の南部にあります神社仏閣は、尼崎城築城により、数多くが移転させられ、この神社もその一つです。 
   随想
 貴布禰神社は海の神様、お祭りは八月です。最大の広さをほこる境内も8月1日、2日のお祭りでは出店がところせましとたち並び、にぎやかなものです。今年はじめて「ダンジリ」のけんかを目の前で見ました。現在はいろいろと規制されているので昔ほど荒々しくないそうです。でも私はこわかった。   

(S60年秋・山神) 戻る

昭和55年11月  ⑯地図 

  16、   西国街道髭の渡し西 名残りなくたたずむ髭老人地蔵
 尼崎市の北、常松の行者堂と、武庫川をはさんで西宮市報徳学園の北側との間に、「渡し」がありました。通常武庫川の渡しといい、また髭(ひげ)の渡しともいわれ、平安時代の延長年間(930年ごろ)に出来たと記されています。
 伝説では、ある時代、常松村に髭をたくわえたおじいさんが、旅人のために茶屋を営み、渡しにも関係していた事から名づけられたといわれています。
 江戸時代以前は、京都から西の国々へ陸路で行くには、この渡しを渡らねばならなかったのです。最初は簡単なカケ橋でしたが、いったん大水が出ると支柱も何も流されてしまう、船子の責任として弁償せねばならないなど、いろいろ困難があって、次に肩のりに変わりまた船渡しに変わっていきました。
 江戸時代の参勤交代や旅人の往来には必ずこの渡しを通ったものです。ここにおもしろい話があります。天保9428日江戸勘定奉行、目付、旗本らが多勢を召し連れて、西宮から伊丹へ行くのにここを通ったのです。この時出された先触れには、行列に対して無礼の無いよう奉行と同名の百姓は改名せよ、田で働いている百姓は下座せよ、葬式は延ばせなどなど、こまかく書いていました。
 時勢の移り変わりは甚だしく現在では、下流300mほどのところに甲武橋がかかり、新西国街道としての国道ができています。
 この渡しも今はなんの名ごリもなく、ただ髭老人を祭ったお堂と灯ろうが立っているだけで、旧西国街道髭の渡しの名を聞くことすら、昔なつかしく思われます。 (山神一子) 参考文献 尼崎市史  戻る

昭和56年2月  ⑰地図 
 17、六樋合併記念碑  旱ばつ洪水今は昔自然の恵みと潤い 守る
 尼崎市の最北端に、武庫川水系六樋合併50周年の記念碑が建っています(昭和53年建立)。武庫川は、元来うねうねとまがり、今の国鉄附近より武庫川と枝川とに分かれて流れていました、一方の枝川は改修工事の結果廃止されて、現在の甲子園球場等になっています。
 武庫川のような大きな川から田圃(たんぼ)への農業用水をひくには、川に堰堤をし“樋”という取水口から水をひきます。市内武庫川には(国鉄より北)六つに分かれた取樋口、すなわち“六樋”がありました。樋は、農業にとっては最も欠かせない重要な役割を果たすものであり、そのためにいろんな争いがありました。例えば、雨が長い間降らないために田地が干上がり、そのためにあちらこちらで水争いが起こり、特に尼崎側と西宮側は仲が悪かったと伝えています。
 旱ばつ同様に水害もたびたび記録され、明治29、30年の2年続きの大洪水のため、堤防が決壊し、被害甚大で人家、耕地は荒廃したといいます。武庫川のような天上川に数多くの取樋口があると、洪水の時は特に危険で改修が幾度か行なわれ、大正9年の阪神国道工事に関連して、武庫川の根本的な改修が実施されました。六つの取樋口もこの時一ヵ所合併し、昭和2年に完成しています。同年に水利組合も発足しています。六樋は昭和28年に根本的に復工工事を行なっています。武庫川上流に千苅貯水池もでき、旱ばつも解消され、農業への多大な成果は誇るべきものがあります。
 幾多の困難をのりこえて合併した六樋は、昭和53年に50周年を記念して「記念碑」を建立し、大きな節としてしるしています。いつもかれることなく流れ、伏流水とあわせてドヘドヘと豊かな水量をはこんでいます。武庫地区の農水路には、自然が残っていて、ハヤからメダカ、アメリカザリガニや、アメンボーなどもせい息しています。日曜日ともなると親子ず連れや、友だち同土で網をもった姿が生き生きと見られます。     戻る    

昭和56年9月 ⑱地図  
18、秦野塾の浄正寺
  

 尼崎ではじめての小学校の前身
 8月もお盆を過ぎた残暑が酷しい昼下がり、常松にある浄正寺を訪れました。
 現在の尼崎市域でもっとも早くできた小学校は明治6年(学制発布の翌年)2月に開設された常松小学校(現在の武庫小学校)で江戸時代から常松村の浄正寺に開かれていた寺小屋秦野塾を母体としたものでありました。
当時の住職恵祥は明倫堂の教頭橋本香披、金太淑園らに師事して漢学をおさめ、いらい開塾しで明治初年には、男10人、女5人の生徒に読書・算術を教えていました。村では一里四方の人達、また遠く箕面方面からも勉強したい人たちが集まっていました。当時のお金で月謝が1円也という高価なものだったそうです。六樋で有名な高寺善右衛門さんも秦野塾の生徒だったそうです。
 昭和54年5月落慶法要を行なった際、野草市長直筆の碑が建てられました。静かな住宅街の中にたたずむ小じんまりとしたお寺に、最近では老人会の人たちが庭を散策したり、また学校育友会の人たちが見学に来るなど、にぎわいを見せています。 

常松は震災の被害が大きく建替えの家が目立ちます。浄正寺も建物が傾きましたが修復が終わりきれいになっていました。伝説「羅生門の鬼」(33P参照)の話を伺った生田さん宅は立派な家になり、時の流れを感じました。(H8年1月)戻る

昭和56年11月  ⑲地図 

   19、椋橋壮治田寺

 椋橋荘(くらはしのしよう)という地名を御存知ですか。尼崎東部にある現在の戸ノ内地区です。経済、交通、軍事の上で、重要な位置をしめていた尼崎地方は、承久の変(1221年)以前に地頭がおかれていたのは、この椋橋荘だけでした。とても発達した荘園で、ここへ来れば何でもそろうという位いろいろなものが手に人っていたそうです。その他この地には、遊女にまつわる悲話もたくさんあります。
 今回はその、戸ノ内橋を渡って南東にある治田寺を訪ねてみました。四方を民家に囲まれていますが、昔は囲りが田んぼであぜ道をまっすぐ歩いてお寺に参詣するというのんびりしたムードであったそうです。
高野山真言宗のこのお寺には、藤原時代末期の作といわれる阿弥陀伽来坐像(県指定重要文化財)があります。これは座高288㎝の堂々たる彫像で桧材の寄せ木内刻り、漆箔の造りであります。肢体の均衡がとれ、面相もおだやかでそれは見事なものです。

24代ご住職にお話を何いました。「この地の事は尼崎市史等書物には紹介されていませんが、昔はとても発展していた土地です。それが今では忘れられている存在、土地の人々は気位いが高いというか、いわゆる島国根性ですかね。・・・」と笑って話してくださいました。(山神一子) 
  随 想
 正門をくぐると、震災で壊れた厨が建設中で、改築された阿弥陀堂は少しのヒビ割れ程度で無事でした。中には、あぐらをかいた阿弥陀如来像が安置されています。鐘楼の鐘がありません。      (平成8年1月)           戻る     

昭和57年1月20日        ⑳地図 

       20、寺町・法園寺
   
武将、佐々成政自害に地
 NHKの大河ドラマ「女太閣記」でおなじみの佐々内蔵助成政=九州肥後の国(熊本県)の国守。50万石の大大名でありました。織田信長に仕えていた佐々成政は、本能寺の変以後、ことごとく秀吉と意見が合わなくなり、成政の支配下に起った農民一揆がもとで責任をとらされ、量後には尼崎で自害して果てました。
 今回はこの佐々成政の自害して果てたといわれる寺町にある浄土宗法園寺を訪ねました。尼崎では余り知られていないと思われますが、この成政は前田利家、柴田勝家、また加藤清正らと共に名を馳せた人です失策の罪を問われた成政は、天正16年正月上方にのぼる様に命令をうけ、2月には尼崎に到着そして4カ月後についに命じられて切腹して果てました。
 尼崎藩戸田氏鉄によって近世尼崎城の構築が始められ城下町の建設が進められる、その過程で成政の墓は寺町に移されたのであろうと推定されます。
 現在の法園寺は、寺というより幼稚園になっており、成政の墓も境内にはなく、いずれかにまつられいる由。寺の人の話では、最近富山・秋田方面から系図をもって、「自分こそ佐々成政の子孫である」と来られる人もあるそうです。寺自身は400年にもなる由緒あるものです。現在の御住職で26世、門の上には菊の御紋とあおいの御紋がきざまれていました。
(山神一子) 尼崎市史参考 

  思い出
 法園寺には最近足を運びましたが、変わりなく幼稚園の子供たちの可愛い声が聞こえてきました。佐々成政の墓はここにはありません。「前奥州大守庭月道閑居士」と刻まれた墓石を私はさがしています。(S60年秋)   戻る

昭和57年3月1日  21地図

 21、猪名川・自然林

蝶蝶もまう自然林 都会に残るオアシス
 ポカポカとお天気のよい昼下り、尼崎で唯一の猪名川自然林(公園)を訪ねました。
 ここは豊中市と尼崎市の土地が入りくんでいることはなはだしく、昭和47年からの区画整理工事で、自然が破壊されるのを残してほしいと、猪名川自然と文化を守る会(岡野錦也阪大名誉教授会長)らのねばり強い行動で、今では自然林はほんの一部分だけですが残されています。
 大きな楠の木、むくの木ややぶつばき、やぶにっけ、榎の木などなど、またツグミ、ヒヨなどの小鳥が木から木へ、また地におりて来て土の中の虫をついばんでは木々へと飛びかっていました。
 小鳥のこえをきいていると、もうすぐそこまで春がおとずれてきていることがひしひしと感じられ、ウグイスも春をつげにくるそうです。管理人さんは「自然林を荒しまわる者が多くて困る。もっと自然を大切にしてほしい」となげいておられましたが、「反対に日曜日など近くの子ども達が団体でおとずれて、公園内の清掃をしてくれることもある」と、うれしそうに目を細めておられました。
 公園の近くの民家で冬の間さなぎをふ化させ、やがて暖かくなってちょうちょに成長したら、自然公園にはなして人々の目をたのしませてくれます散歩道はアスファルト(豊中市側)もありましたが、もっともっと自然を残してほしいと思いました。
 春も近いことですし、一度ハイキングでもいかがでしょうか。    (山神一子)
  随 想
 尼崎市では二番目の広さをもつこの公園は三ヶ月湖や自然堤防を残して、手入れのゆきとどいたものになっいます。そして広場や野球場、健康マラソンコース等のスポーツ施設もあり、日曜・休日には親子連れで賑わっています。子どもたちのための新しい故郷づくりの一環として「親子夏まつり」が催され、市民の憩いの場であると共に、地域のコミュニティの広場にもなっています。 (S60年秋)    戻る     

昭和57年5月  22地図 

  22、富松神社

本殿は兵庫県重要文化財指定
 富松神社は、市内の保護樹林では、最も広大な面積で約6000平方メートルもの境内です。樹齢700~800年の楠の木もあります。建造物は本殿・幣殿・拝殿・翼殿・回廊・社務所・参集殿とあり、本殿(御神殿)は、昭和43年兵庫県重要文化財指定になっています。覆屋内にある一間社春日造りで壁等は絵画が施されており、華麗な桃山時代の余風をよく伝えています。
 入試時期には、小学生から大学生に至るまでの人がたくさん合格祈願の絵馬をかけにきます。中には交通安全、家内息災の絵馬も見うけられます。10月10日の大祭には、お神楽等が見られ、また2月4日の節分には「鬼やらい」という富松神社ならではの催しがあり、とてもたくさんの参拝者でにぎわうそうです。
 むかしはこのあたり田んぼや畑ばかりで、ところどころにぽつんとわらぶき屋根の農家が点在していたのではないかと思われます。ところが現在では近代的な住宅が建ち並びマンションや市営団地がところせましと建っています。道路はきれいに整備され、むかしを偲ぶ田園風景はどこにも見られません。人口もどんどん増えているので、神社への参拝者もかなり増えているそうです。
 近くには尼崎市では有名校の県立尼崎北高校があります。

 富松神杜祭祀の儀
○大祭-秋例大祭10月10日
 新年祭    3月1日
 夏越祭。   7月16日
 新嘗祭    12月16日
○中祭-歳目祭   正月元旦
 愛岩火祭    8月24日
 七五三詣り   11月15日
 大祓祭     12月31日
○厄除大祭  毎年2月節分日 

【交通機関】阪急神戸線、塚口駅北口より
尼崎市バス、尼崎北小学校前下車、徒歩3分       戻る    

昭和57年7月
   23、守部十三重塔  23地図 

   鎌倉時代から今日まで地域見守る

 小雨降る昼下がり、南武庫之荘8丁目にある守部十三重塔を訪ねました。(すさのお)神社にあるこの十三重塔は高さ約4・5メートルで、塔身の月輪(がちりん)内に金剛界の四仏の種子(じゅじ)を肉太に薬研(やけんぼり)し、笠、下端に種形(たるきがた)があります。13の笠のうち、大半は別の笠で補充されていて作った時の相輪は、町内の共同墓地に残っています。
塔は鎌倉時代14
世紀初期に造立されたそうで、立派そのものです。
 霧のような雨もやんで境内を散策していると、ちょうど通りかかったこの神社の氏子会々長さんにお話をうかがうことができました。最近尼崎神社会で調べたところによると、ここには300年ほど昔の一番古い石燈ろうが建っていることがわかったとのこと。300年もの間風雪にたえぬいたようには見えないほどしっかりと地に立ち、この地域の歴史の移りかわりを見守っていました。またこの神社には、日本に3体しかない身の丈一尺三寸(約42cm)程の観音さまがまつられています。この観音さまは木でも金属でもなく、なんと和紙でできた「はりこの観音さま」です。
 1年に1回だけ、8月18日の夜この境内で「観音おどり」が披露され、ひと目お姿を拝見しようと大勢の善男善女で、にぎわうそうです。
 折りしも一人の女性が一心不乱に合掌し、立願する姿が目にとまりました。若い善女はいったいなにをお願いされているのやら・・・。  (山神一子)
●市バス 出屋敷駅⑩番にて守部公園前下車、東へ3分。
●阪神バス 南武庫之荘5丁目下車西へ5分。
 2年前取材に行った時に1人の女性に出合いました。その女性は何をお願いしていたのか、一心不乱に合掌して、とても印象的でした。
 私と同行して下さった斉藤元編集長が最近、素蓋鳴神社の前を通りかかった時、その印象的な女性が今だにお参りして一心に合掌している姿を見られたとの事、ほんとうに何をお祈りしているのでしょうね。(S60年秋)  戻る

昭和57年9月
  24、塚口御坊24地図 

庶民の抵抗=一向一撲の本拠地
 戦国時代、尼崎地下人と呼ばれる有力な住民たちが町をとりしきっていました。この時代には、尼崎の地は多くの武将か往来しましたが、尼崎地下衆は、経済的な実力で尼崎を保護してきました。
 天文2年から5年まで(1533~1536年)の間、尼崎では一向一揆がさかんでした。その本拠地となったのが、200m四方の規模をもつ塚口御坊(現花の正玄寺)です。真宗興正派別院で御本尊は阿弥陀如来です。応永16年(1409年)真宗興正派第11世性曇上人かこの地に建てられました。
 現在は、市街化のため、その面影をほとんど失なっていますが、旧村の東端・北端部及び西南部に遺構をわずかに残しています。高い土塁をめぐらした外側に広い壕をもち、町四方の土塁壁で囲まれていたようで、要所要所に入口門を設け、外敵を防くための出城、いわゆる砦であったようです。
 現在では、東と北に小祠を祭った祠堂のある土塁が一部残されていますが、これが当初の面影を残す城塞跡であります
 東の祠堂の近くに、石で出来た小さな道標(右昆陽中、左西宮)が、土ほこりをかぶってひそかに建っていました。
 この道は、昔の街道であったのでしよう。(山神一子)
  
随 想
 夏の暑い盛りに正玄寺を訪ねた時、たくさんのせみがところせましと鳴いていました。大木の下の方にいたくまぜみを素手で捕まえて子どものおみやげにしたくらいです。
 自然破壊と云われている昨今ですが正玄寺のせみは、今年もにぎやかに鳴いた事でしよう。 (S60年秋) 戻る

昭和57年11月
25、大物公園25地図 

  日本列島を形どった「ふる  さとの森」
 大物公園に、日本列島を形どったこんもりとした森があるのをごぞんじでしょうか「ふるさとの森」といって、12年前につくられました。公園の一角には産業郷土会館もあります。  
 尼崎市は、人口の7割までが地方からの出身者によって構成されているそうです。故郷を思い出すという一時のいこいの場所として思いやりをこめて、全国から持ちよせられた県木が植えられています。
 今ではそれがおい茂り、木陰がりっぱです。おとしよりの散さく、子供たちの遊び場として広く利用されています。尼崎の地点には、尼崎城の石がきが置いてあります。
2号線にかかっている「いながわばし」は、義経と静御前の涙の別れの橋の伝説があります。  (山神一子〉
【交通機関】阪神バス大物北口、産業郷土会館前。阪神電車大物駅北へすぐ
  随 想
 日本列島を形どった「ふるさとの森」は今でも健在です。ところせましとおい茂っています。丁度「ふ在、県立尼崎病院建設のために工事中です。病院が成の予定ですので入院患者が病室の窓から、この「ふるさとの森」を見てなぐさめられたらどんなに良い事でしよう。
(S60年秋)    戻る    

昭和58年1月 26地図    
    26、白壁へい

    旧国道に新名所?
 国道2号線の南、東西に走る通称「旧国道」は、近世には西海道と呼ばれ、尼崎と西宮を結び西国街道につながって兵庫への道となっています。昭和2年阪神国道が開通するまでは、尼崎の幹線道路でありました。
 この旧国道にかかっている明倫橋を西へ渡り、琴浦神社に手を合せてしばらく歩くと武庫川に出ます。武庫川の少し手前に、最近建てかえた大庄団地(市営庄宅)の自転車置場がなんと歩道にそって武家屋敷のような白壁へいができています。
 市の文化健康推進本部のプロジェクトチームの考案でつくられたもので、市営庄宅の美化、また名所、史跡の多い尼崎のムードを出そうと、モデル事業の一つとして試みたそうです。  昔は松並木で「下に―、下に」と大名行列もあったかも知れません。今は松の木3本が植えられ、塀のとぎれたところに茶店の軒先きの格好をしたバス停もまた風情があります。お年寄りの散歩道としても絶好のものだと思います。ぜひお茶のみ友達とどうぞ。  (山神一子)

【交通機関】市バス大庄小学校前
  思い出
 旧国道に武家屋敷風の白壁へいが出来たと人づてに耳にしたので早速取材に行って少しガックリしました。というのは、せっかくの白壁のへいがコンクリートだなんて考えもしなかったからです。しかし現在この道を通るたびに昔の情景がしのばれます。   戻る 

昭和58年3月  27地図  
  27、雉が阪

きじに助けられた臣秀吉
 旧国道を西へ、武虜川の土堤にかかる「雉ケ坂」と呼ばれる坂道があります。雨がしとしとと降る午後伝承の地「雉ケ坂」を訪ねて見ました。昔この附近一帯に竹や葺が生い茂っていたそうです。
 天正10年京都本能寺で、明智光秀が織田信長に対して謀叛を起こした時、豊臣秀吉は今の岡山県の備中高松城に毛利勢と戦をしていました。光秀はその秀吉をもうつべく、ここ尼崎市の武庫川近くに待ち討ちの陣をしいていました。(大庄地区の松内町はこれに由采しています)光秀叛逆の知らせを受けた秀吉が急ぎ引き返し、武庫川近くに到着した時は夜明け前なのに、川岸の竹やぶからあわただしく雉が飛びたったのと農民の知らせもあり、この辺りに伏兵ありと悟った秀吉は、進路を北の茶屋街道(西国街道)へ変えまんまと光秀の背後をつき主君信長公
の無念を晴らしました。
 その後、太閤となった秀吉はこの土地を訪ね「雉ケ坂」と名づけ附近の田を土地の人々に与えたと伝えられています。  〈山神一子)
交通機関 市バス大圧西1分。 阪神電車武庫川駅北へ3分

  随 想
 かっては葦の葉が生い茂り、きじがたくさん飛びかっていたのでしょう。秀吉の軍勢と光秀の軍勢が戦かったこの地も今ではきれいに整備され、きじが鳴くどころか葦の葉一本はえていません。
丁度取材に行ったこの日は朝から雨がしとしと降り、まるで敗れた光秀の家来達がくやし涙を流している様にひしひしと感じられました。     戻る 

昭和58年5月  28地図
 28、金楽寺貝塚

  境内いちめんに貝がら
 現在の金楽寺・長洲のあたりは当時の記録に浜地250町と記されている海岸地帯であったらしい。ここには漁業を主とする人達が住んでいて東大寺領として「長洲浜」とよばれています。長洲浜の住民は貴族や皇族に奉仕し、身分上の特権を得て運輸、漁業などに従事、瀬戸内を渡ったり京都に上つたりその活動範囲は大変広かったようです。やがて領主の東大寺がしだいに権威を失うと魚や貝を納める役目をもって鴨社に仕える様になりました。
鴨社は朝廷の信任があつく、長洲の住民もその保護のもとに特権を得、有利に活動しました。しかし、鴨社はその後活動に制限を加えて束縛する様になり、そこで住民達はもう一方の領主である東大寺に訴え助けを求めました。こうして東大寺と鴨社との間で長洲の領有権をめぐって数百年の間争われました。
 この様な文献からこの金楽寺貝塚は古墳時代から鎌倉時代にわたる歴史のあとを残しています。(山神一子)

〔主な出土品〕魚骨、鳥骨、石包丁等、赤貝、しじみ、他土製玩具、土人形  〔交通機関〕市バス天満神社前西
 思い出
 境内いちめんに貝がらの破片が敷きつめられています。断面図を見ると地下何メートルかは貝がらの種類によって断層が出未ているのです。当時の住民の生活様式の一部をかいま見た様な気がしました。

戻る

昭和58年7月  29地図
  29、長州天満宮

    菅原道真公停泊の地
 本殿は一間社流造り。桧皮葺で慶長12年(1607)に建立。桃山時代の特色をよく残しています。また、この神社には伝説として菅原道真公が太宰府に流される時、淀川を下ってこの地に停泊したと伝えられています。
 こ近所の氏子総代の西村さん(80歳)にお話を伺いました。
当時、村人達が集って「罪もないのにかわいそうだ」と同情したこと、翌朝一番鶏がいつもより早く時を告げたので出発が早まり、それからこの地域では鶏を飼わない風習が始ったこと、そして戦後物資のない時に氏神様に御祈とうして鶏を飼うようになったことなど氏子のみなさんの信仰心に強く心をうたれました。
 尼信の北側に「菅公足洗いの池」、長洲小学校北門の所に「菅公舟つなぎの松」等があります。

 人しれず移る泪は津の国の
   長洲と見えて袖ぞ朽ちぬる

と菅公が詠まれて、自画像が本殿奥深くに祭られているそうです。

(ナニワ 山神一子)

〔交通機関市バス天満神社前1分
  随 想
 長洲天満宮を取材に行った時訪ねた西村さ
んの話によれば、明治32・3年頃この長洲の地から阪神電車が走るのがよく見えたとか、見わたす限り田んぼや畑で何も建物がなかったそうです。    戻る

昭和58年9月
    30、尼崎城 30地図  

   シーボルトにも推賞された城
 尼崎城は元和元年、一国一城令が出された直後戸田氏鉄みずから指揮のもとに、豪華な四層の天守閣を備え、本丸、ニノ丸、三ノ丸の三重の堀をめぐらした水陸両用の堅城が完成した。この城を中心に侍屋敷や寺町が形成された。
この時今の大物
町に点在していた寺を城廓に集めたのが現在の寺である。
 またドイツの医学者シーボルトをはじめ外国使節が尼崎を通過した際に船上より見れば浮城の様であり、街道より見れば丘の様に美しいと推賞したそうである。
 明治6年の廃城令で、ほとんど取りこわされ第二阪神国道建設の際に全く姿を消し、今は地名のみ残っている。ありし日の尼崎城は昭和15年模型として完成、現在城内小学校の庭に残されている。
(
ナニワ 山神一子)
 尼崎市史参考
〔交通機関〕市バス阪神尼崎より南東へ10分

 城内小学校内の尼崎城ミニチュアは地震で無残にも壊れました。百年以上の歴史をもつ学校も大きな被害を受け、現在工事中でした。(平成7年秋) 戻る

昭和58年11月 31地図
  31、尾浜八幡神社
 伝説「名月姫哀話」
 秋雨のそぼふる午後、名月姫の菩提所を訪ねました。名月姫とは久安2(1143年)の8月15日の名月の日に誕生したところから名づけられました。
松に実父国春が住んでいました。姫が
14歳の時能勢の
    
いえかね
藤兵衛
尉家包に嫁したが、当時権勢を思いのままにしていた平清盛は、彼女の艶麗な事を聞いて使者を送って側女に差し出すよう命じましたが姫は側女になるよりはと自ら命を絶ってしまいました。これはいわゆる伝説名月姫物語です。
 名月橋のたもとに
ある尾浜八幡神社にもの悲しくたたずむ宝きょう印塔は通称「名月姫の塔」といわれています。又堂内に父国春帰依の仏と言われ大日如来が安置され例年8月25日には開帳されるとの事です。   (ナニワ 山神 一子)      参考 尼崎市史、郷土研究上方

【交通機関】市バス阪神尼崎より⑤番、尾浜西口下車 南東300m

  随 想
 「名月姫哀話」はあくまでも伝説です。

この11月3日アルカイツクホールで尼崎市民文化祭が行われ、その時「ああ名月姫」と題し上演されました。名月姫は14歳の春、何者かに連れ去られ、母は嘆きの果てに病いに臥しこの世を去りました。父は出家して娘を探がして諸国を廻っている内に清盛の家来に捕えられあやうく人柱にされようとしているところを名月姫の恋人に助けられ娘と再会しかし恋人は父の代わりに人柱に、そして喜びもつかの間、父もかえらぬ人となってしまいます。名月姫も自害・・・れもまた哀れな物語です。(S60年秋)  戻る    

昭和59年1月
32、ユニチカ記念館 32地図
 城下町としてにぎわっていた尼崎は廃藩後次第に町の活気をうしなっていきました。その失しなわれた活気をとりもどし今日の工業都市としての発展のみちをきり開いたのが尼崎紡績会社(現ユニチ)の設立でした。
 尼崎紡績は明治22年尼崎の商人・地主や士族などが中心になり、大阪財界人の協力を得てつくられました。この建物は明治22年本社事務所として建てられたものです。あざやかな赤煉瓦造り二階建ての近代的建物は当時の人々の目をみはらせたものです。中にはいろいろな資料が展示されています。
 尼崎紡績の設立は、生活に困った士族を救い、さびれつつあった尼崎を再建する事が一つの目的だったといわれています。大正7年大日本紡績とあらため、日本で指折りの大紡績会社に発展しました。見学は予約制  (ナニワ 山神一子)
     【交通機関】阪神大物駅より南400m

 社名の変遷
明治22年 6月   有限責任尼崎紡績会社
明治26年 7月   尼崎紡績株式会社
大正 7年 6月   大日本紡績株式会社
昭和39年 4月   ニチボー株式会社
昭和44年10月   ユニチカ株式会社     戻る
 

昭和59年3月  33地図 
    33、常吉、常松
     伝説「羅生門の鬼」
 その昔、常吉村は源頼光の家臣、箕田源次郎渡辺綱の領地で、当時羅生門に出没していた鬼の手が綱の家にあったのを鬼女が現われむりやり奪って破風(屋根の部分)ら逃げた。その時から常吉村には破風のない家に変ったとの事。これは常吉村に伝わる伝説です。
 生田和一郎さん(64)にお伺いしたところ「昔この辺のわら屋根は鬼が入るとかでふさいでた。戦後の頃迄はわら屋根がまだまだ残っとったがなあ」と聞かせて下さいました。地名はそのままっています。
 かつては友行、常松等という名前の大名主が荘園領主から名田を与えられ年貢等を納めた時もあり、やがて鎌倉時代に入って名田は地名化し現在に残っているのです。  (ナニワ 山神一子)    参考 武庫誌

【交通機関】市バス出屋敷駅より⑨番、常吉下車。
      阪神バス宝塚線、武庫工
業高校前下車西方へ

  随 想
 伝説「羅生門の鬼」の鬼女物語を、常陽中学校の生徒たちが学校の西側171号線の地下道の壁に絵を描いています。近くを通った人は必ず見てほしいですね。しかし、最近、この地の町名変更があり、小字が消え、さみしいかぎりです。「破風」について地域研究資料館の方に親切に教えて頂いた時は、とても嬉しかったです。写真は地下道の絵の一部です。 戻る

昭和59年5月  34地図 
    34、武田勝親
     家康に敗れ尼崎へ
 東園田は富田に武田勝親の墓があります。勝親といっても皆さんには余りなじみのない名前ですが、武田勝頼の三男(玄の孫)として生まれました。NHKの大河ドラマ「徳川家康」で覧になったと思いますが武田信玄の死後、勝頼は長條で信長、家康の連合軍に敗れ1528年甲斐の国天目山の戦で敗死しました。そのため勝親は甲斐から逃れ、当時播磨の大名であった池田信輝(政の父)に護られて尼崎富田の地に住みついてこの地に没しました。
 その子孫の方に伺いましたところ「はっきりは知らないが昔、系図とか信玄の自画像、緋の衣等あったらしい。勝親の石碑の廻りに刻まれている碑又を解読すれば、大体の様子がわかると思うが難かしくて読めない」とおっしゃってました。  (ナニワ 山神 一子)

【交通機関】阪急園田駅北側市バス、東園田4丁目下車東300m、

 船詰神社50m念寺 (武田宅)

  思い出
 園田のはずれの大きな木の下にひっそりと建つお墓。甲斐出身の方々がお参りに行かれているようです
 戻る

昭和59年7月  35地図
   35、難波八幡神社

    昔は一帯が梅林
 梅雨の晴れ間の初夏を思わせる昼下がり、東ナニワにある八幡神社を訪ねました。400年程前はこの地一帯は梅林であったそうです。現在その名残りとしての地名(梅香、梅の里等)があり近くの熊野神社には今でも数多くの梅を咲かせています。当時の鎮座地は、西長洲の住友五社のある所でしたが、村全体が大火に見舞われ現在地に鎮座し直されたと言われています。
 創立は仁徳天皇の時代と伝えられ、当地に度々行幸され土地の人達に特別の恩恵を蒙られたので天皇の父帝である応神天皇を祭神とてお祭りしています。又境内には尼崎城の大手橋の橋桁にきざまれた城主松平忠吉公(亀文)直筆の旬碑があります。 

 “雪を見て
    又豊年か村の梅
 樹齢200年からの大木がそびえ夏になると朝早くからせみがなき子ども達が集まってくるそうです。  (ナニワ 山神一子)

【交通機関】市バス阪神尼崎南側より⑥番西難波南下車東へ300m

  思い出
お正月に行くと稲荷社が半壊で修復されていました。松平忠吉公(亀文)の句碑は無事でした“古池やかわず飛びこむ水の音”を芭蕉が詠んだ場所は、尼崎藩江戸下屋敷(東京深川)であると芭蕉庵日記に記されています。(平成8年1月)戻る

昭和59年9月  36地図
   36、尼崎薪能
    真夏の夜の古典芸能
 
平家物語ゆかりの地である大物川緑地野外能舞台で「尼崎薪能」が、がり火の中に幽玄の絵巻がくりひろげられました。

 薪能とは、夜になって薪をたいて、それを照明がわりに能を演ずるところからではなく、新年に御薪を寺社にお供えする「薪の神事」に伴って行われていた猿楽から来た名称で一種の春を迎える信仰行事でした。
 舞台は、尼崎能楽会の人達による舞囃子「松風」で開幕、狂言「茶壼」で笑いをさそい、あたりはようやくくれなずむ頃、松明を手に野草市長、福島教育長等による火入れ式。かがり火がめらめらと燃えさかる明るさの中で舞台はいよいよ能楽小鍛冶」へと移ってきます。二時間程にわたって優雅に演じられ、観客は真夏の夜の古典芸能に魅せられていました。
 薪能は、毎年8月5日の夜6時から催されてます。 (ナニワ 山神一子)
【交通機関】阪神電車大物駅より南東200m
 戻る

昭和59年11月  37地図 
   37、大庄・寺田さん宅
     尼崎にも異人館?
 旧国道を武庫川に向かって歩いていくと琴浦神社がありますその少し西に異人館の様な建物があります。これは寺田政蔵さんのお宅で今から60年程以前に寺田さんのお父様が建てられたものだそうです。
 当時は見わたす限り田んぼで家はチラホラ、現在の道路の中心当りは川が流れていたそうです。
 水道がなく井戸で水をくんでいた時代、,ポンプで水を吸い上げる装置を作ったのですが、余りに大きく無細工なので地下にポンプを入れてその上に部屋を建てたものが現在そのまま残っているのです。門の方は亀甲の型をしたスレートでちょっと変った屋根ですね。当時芦屋しか見られなかった建築だそうです。寺田さん曰く「おやじは百姓が嫌いでこんな道楽ばかりしておった。でも今まで残しておるのは記念になるからなあ」とおやじさんを思い出したのではないでしょうか。
建築業者等が見学に来たり、写真をとりに来る人も多いそうです。

(ナニワ 山神一子)
【交通機関】阪神電車センタープール下車北三分   戻る 
 

昭和60年1月  38地図 
   38、伊名寺廃寺

     戦国時代に焼亡
 今朝は朝から雨、小雨がそぼ降る中を格調の高い寺院跡と言われる猪名寺廃寺を訪ねてみました。
 法隆寺式の伽藍配置になっている猪名寺廃寺は兵庫県下で最も優秀なものと言われる飛鳥時代後期の寺院跡であります。かつては遠く南北朝時代に赤松円心の兵火にあった事、また戦国時代に荒木村重、織田信長の兵火で完全に焼亡した事等伝えられています。
 猪名川ぞいにこんもりと森のように木が生い茂り人の気配を感じてか急にバタバタと小鳥が飛び立つ音におびやかされ乍ら歩いていると何んと変った石塔のお墓を見つけました。昔のえらいお坊様のものでしようか。丸い大きな墓石で廻りに何か彫っているのですが、永年雨風に絶えてきたのか殆んど判読出来ない状態です。昼なお暗い無気味な感じの廃寺でした。

【交通機関】阪急園田駅より市バス60番猪名寺下車北へ200m

 廃寺は、左撲丘と呼ばれる標高100m程の丘陵地帯で、藻川が猪名川から分流する地点に位置する広大なものです。 猪名寺の地形から、この廃寺が戦いの要塞になり、合戦の場になっていたと「陰徳太平記」に記されています。今では雑木が生い茂り、こんもりと森の様に見えます。  H7) 戻る

昭和60年3月  39地図 
   39、築地

   漁港で栄えた町
 爆撃を一度もつけなかった築地一帯は昔のままの家並みが未だに残っています。その昔漁港で栄えた町でもあります。 車えび、ちぬ、たこ、すずき等の魚がたくさん取れていたのですが、終戦後しばらくして工場が出来、海の状態が悪くなり、若い人は陸へ上がって商売人、サラリーマン等に転職するので船に乗る人もいなくなり昭和47年には漁業組含も解散。現在では魚つり、海の好きな人が集まって趣味で船に乗っていると、元漁業組合長の加藤幸男さんから伺いました。
 近くには、初島大神宮があります。伊勢神宮直轄の格式高い神社でその鳥居は伊勢神宮から献上されたもので秋祭りの9月5、6日には大変なにぎわいを見せます。松島、小島、向島等は名前の通りの離れ小島でそれぞれは橋でつながっていたそうです。また、300年程前はこの地一帯は海でした。
 今ではいなくなった魚が帰って来て住みついているそうです。築地の町も活気ある町になるのもそう遠くないのではないでしようか。(ナニワ 山神一子)

【交通機関】阪神尼崎駅よリ南へ700m

爆撃を一度もうけず昔のままの街並みも1月17日の大地震には、逃れられなかった様です。尼崎の中でも最も被害の大きい所の一つで、液状化現象で街全体が傾いています。初島大神宮は本殿がつぶれ工事中でした。漁港は何年も前にうめたてられ、公園になつていました。    (H7年秋) 戻る

昭和60年5月  40地図 
  40、寺江亭跡
    乗船のまま亭内へ
 神崎川が左門殿川にわかれる少し上流に塩野義製薬の工場があります。
この工場建設の時、かなりの礎石が採取されたことから、寺江亭跡と推定されています。
 寺江亭は平清盛政権の中枢にいて権威をふるっていた五条大納言藤原邦綱の別亭で、安元年間の京都の大火後、治承3年(1179年)この地に創建されたものです。
 この寺江亭には後白河法皇、安徳天皇、建礼門院等高貴な人達が宿泊されたそうです。建物はいつ消滅したかはわかりませんが、唐様の建築で豪華なものであり、ことに神崎川べりに建てられていて舟に乗ったままで屋敷内に入れるようになっていたそうです。杭瀬高田町の築山きみさんというおばあちゃんにいろいろお話を伺いました。
 明治の時代には今福は高台だった。大島小島がたくさんあって安芸の宮島に匹敵する程景色はよかったそうです。明治38年4月12日阪神電車が開通した時には今福から何の障害もなく電車が見られたそうです。
(ナニワ 山神一子)
  

【交通機関】阪神杭瀬駅より北へ1キロ。
      阪神バ
杭瀬駅北下車、北へ800メートル。
    戻る

昭和60年7月                       41地図     
   41、発電所跡

一、大阪城の松よリも  栄えは尽きぬ大阪市
   巡る電車を乗リかえて 出で立つ梅田の停留場

二、賑ふ旅客の出入橋  過ぎて波風福島は
   義経平家を討たんとて  船揃せし港の地

三、浦江の莱種野田の藤  新淀川の月の秋
   稗島、大和田、神崎の  西の川岸には佃あり

四、杭瀬、大物、尼崎  琴の浦なる城あとも
   今は名のみの礎に   かはりて立てる小学校

1905年(明治38)4月、阪神電車が開通した時、作られた
「阪
神電車唱歌」です。当時のおもしろいエピソードを紹介します。電車に下駄をぬいで乗るお客、山から狸がおりて来て電車にひかれて狸汁になったとか等々・・・。
 うどんが一銭五厘の時節に一区間5銭の運賃で大阪-神戸間を90分で走った。180年後の今日25分のスピドは夢想だにしなかったでしょ
 県立尼崎病院北側のレンガの建物は電車専用の火力発電所で日本最古のものです。  (ナニワ 山神一子)

資料提供・阪神電鉄尼崎駅

【交通機関】阪神尼崎駅よリ東へ200m   戻る

昭和60年9月  42地図 

42、松原神社
    崇徳上皇島流し時に寄る
 住宅の密集した、そしてかなりの車が往来する道路脇にこんもりと木立ちの茂った閑散とした中に松原神社があります。
 浜田伝承によれば崇徳上皇が讃岐に流される途中、大風が吹いて、この地に身を寄せられた。その時村人達が海の物、山の物を差し上げて手厚くお慰めした。上皇が讃岐で亡くなられてから現在に至るまで上皇の喜ばれたものをお供えしてその霊をお慰めしているそうです。3月13日の春祭りの朝、中央市場へ買い出しに行き(このしろ、蛤、牡蠣、蜷貝、湯葉、午旁等)、「ダンゴーボー」というお供えをつくってみんなでお祭りした後、おさがりとして配り一組は浄専寺へお供えします。
 崇徳上皇は在位18年御歳23歳で異母弟の近衛天皇に譲位なされた後、保元元年後白河天皇に叛して保元の乱を起こすが敗れ、讃岐に流され悲劇的な死のため、長い間御霊として恐れられた。
江戸時代農業用水として
利用された浜田川の水をめぐって水争いがあり浜田村のお百姓八名が水争いのため入牢させられ全員死亡、他に庄屋、年寄リ10名の霊が浄専寺の墓地に眠っています。(ナニワ 山神一子)

【交通機関】阪神尼崎駅よリ市バス40・6番、浜浦町下車南へ200m

  随 想
 松原神杜へ行く道の右に、浄専寺の墓地があり、お百姓8人を祭ったお墓があます。尼崎市の建てた解説板のすぐそばです。戻る

昭和60年11月  43地図 

43、伊居太古墳
    尼崎市内最大の前方後円墳
 尼崎市域の古墳時代遺跡は、その大半が荒廃した消滅しており現存するものや近年まで存在していた遺跡は古墳で7、8基、遺物出土地十余ヵ所となっています。
 なかでも市内最大を誇る
伊居太神社の前方後円墳は荒廃がいちじるしくまた調査が部分的であったために形、規模、構造等にわからない点が多いが出土された遺物(鉄鏃、鉄剣刀、土師器片、須恵器片等)や地形からみて五世紀末の古墳であったと推定されています。現在ではかつての墳形は全くなく周辺の地形よりやや高く神杜の境内になっています。
 若王寺遺跡は古墳時代の
大規模な集落跡で堅穴式住居跡の床面と壁面の一部がまた高床式建築様式を思わせる太い柱根と大きな柱穴を残す住居跡遺構としてその規模の大きさは阪神聞でも珍しいそうです。ここでも鉄刀、鉄斧、鉄鏃等の鉄器が多く出土しているところから製鉄工房の遺存を推定させる遺跡でもあります。
 現在は遺跡らしきものは何もなく日本電気試験所構内に印だけ残っています。 (ナニワ 山神一子)

【交通機関】阪神尼崎駅よリ市バス①②③番、
      阪急塚
口駅よリ③番、近松公園前下車東へ50m
  戻る

 

昭和61年1月 (注)現在は有りません。
44、出屋敷天満演舞場
 役者と観客の心がふれあう大衆演劇
 拍手喝采、縞の含羽に三度笠、旅から旅への旅鴉、弁天月太郎がさつそっと花道から舞台へ「まってました二代目、カッコイイ!」と客席から声がかかります。
 ここは出屋敷天満演舞場、
12月興行の風劇団の初日です。この劇団の座長近衛竜之助さんは道意町に住んでおられ、しかも若手二代目は弱冠16歳、目鼻立ちの整った美少年で今年中学卒業と同時に何の抵抗もなく二代目座長を目ざしてこの道に入り、今は芝居が面白くてたまらない時だそうです。
 2代目勝竜吾君曰く「カッコイイ役やるから気持ちいい」とあどけない表情しかし稽古は大変厳しく座長が気に入らなかっら手がとぶそうです。毎日違う出し物で15日間興行。
台本なしで口うつしでセリフを覚え、芝居、歌、楽器、踊りと稽古に明けくれライベートな時間はほどないそうです。
 今大衆演劇が盛んにマスコミの注目をあびて人気を呼んでいます。尼崎にもかつては富士劇場、武庫川日光劇場、杭瀬の寿座等五、六カ所に劇場がありました。中でも寿座にはまれに見る奈落があったそうです。興行も長くて5日、普通は3日で次へ移動してました、今では尼崎に唯一の劇場がここ出屋敷天満演舞場です。昭和58年10月オーブして2年余り、なかなか評判で遠くから見に来てくれます、とは支配人談。この他にもテレビでおなじみの美里英二さん等の興行あり人気上昇中・・・。
 私は若手二代目勝勝竜吾君に早く一人前の役者になてカッコイイ座長になっほしいと心から願って、まだ興奮さめやらぬ思いで演舞場を後にこ冷えのする町に出ました。 
( ナニワ 山神一子)

【交通】阪神電車出屋敷北出口より5分。   戻る

昭和61年3月
   45、楠霊神社
  心霊が宿るという楠の巨木
 「武庫川堤防辺に樹齢200年以上を経たりと思わるる楠の老木あり遠近人目を引く」と大庄村志に記されている様に、ここ楠霊神社には市内で最も太い幹周り5、3mもある楠が祭られています。
 今から約100年程前此の地に洪水があった時この楠に登って難をのがれたとか、この地にあった墓地を移転した後雑木が生い茂り、追はぎが出没し人々から恐れていたが、誰とも知れずこの木に締め縄を張り、小鳥居、厨子などを構えて霊木としたと伝えられています。また昭和11年頃近くに住んでおられた酒井秋子氏、この地を歩いていて或霊感に打たれたが、これがそもそも祠の起源なったと伝えられています
その後まもなく、この地一帯払い下げの指令が県より下ったので、此の楠も競売に付せられそうになったが楠の周囲40坪余りを買収し楠霊祠と名づけました。当時楠の下に競売阻止のため「此の木を伐るものに天罰あり、昭和の和気清磨」という立札が見られました。現在この楠霊神社には代の神主さんは亡くなられ
          
ひさし
弟子である二代目佐藤永郎
さんが東京に住んでおられるため月の内2日この神社で霊を見られるそうです。
 この時は遠方からたくさんの人達がつめかけるそうです。今マスコミに大きく取りあげられている心霊の世界だけに人気が集まっているのではないでしょうか。 (山神子)  参考 大庄村志

交通機関】阪神電車武庫川駅車南へ1分

  思い出
 10年程前、楠霊神杜を取材に行った時は、大雪に見舞われ、あたり一面銀世界で、雪を知らない私は、子どもの様に嬉しかったのを思い出します。H7年秋)戻る    

昭和61年5月       竹谷新田村
  46、出屋敷絵図
  三和商店街にかき船が往来
 

出屋敷で150年も続いている表具師、岸田さん(84歳)に70年程昔(大正5年頃)の出屋敷界隈のお話を伺いました。
 貴布弥神杜から西本町筋は、現在の三和商店街の発祥地とも言えます。今も地名が残っている様に玄番堀(鉄砲川)という川が流れていたところが現在の三和本通、サンロード、新三和商店街等です。わずか70年程前は、この川にかき船が往来し、今の出屋敷周辺は芋畑でした。ここで収穫された甘芋は京都方面に出荷されそれは名高いものでした。
 農耕用の馬や荷馬車用の馬を集めて草競馬に興じたお百姓さんたち、何とのどかな事でしょうね。それが現在の竹谷小学校です。
 逢(よも)川も今の三倍位幅広く、道意新田へ行き来る唯一の交通機関、渡し船がありました。船守は農家から交替制で船賃は五厘でした。川には鯉・鮒・鰻・川えび等がたくさん棲息していて子ども達は学校から帰るとバケツをさげてそれらの魚を取りに行くのが楽しみの一つだったそうです。
 当時尼崎には尋常小学校が三校しかなかったので中学に進学するには伊丹まで通学しなければならなかったのです。国道43号線も当時は川だったそうで昭和38年うめたてて完成しました。 こうしてわずか70年程の間に時代の流れと共に移り変わっていく出屋敷の姿をとどめておこうと5年程前に郷土絵図を作成したそうです。現在尼信出屋敷支店にかざられています。   (山神 一子)
交通機関】阪神電車出屋敷駅 北へ200m。
  随 想
 時代の流れと共にすっかり変わった出屋敷。私が住んでいる街ですが、6年程前に駅前再開発により店舗付マンションが出来、阪神電車も高架事業で立派な駅舎が出来て、新しい街づくりに活気が出て来た様に思われます。しかし、大地震から1年、空地やガレージもたくさん出来ましたが新しい住宅も建ちはじめ、街並みも変わりつつあります。街並みは変わっても、庶民的で人情深い街の気風は変わってほしくないですね。(H8年)
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昭和61年7月 あ  じ ゃ り    けい  ちゅう
             47、梨契沖
   尼崎が生んだ国学者
 今回は真言宗のお坊さであり、江戸時代前期に学の学問的基礎を築いた古典研究家の契沖について紹介します。
 契沖の祖父下川元宜は、肥後熊本の加藤清正に仕え五千石の家老職でありましたが清正の死後、父の代になって尼崎城主青山幸成(よしなり)のもとに移って来ました。そして寛永17年(1640年)下川元金の二男として生まれました。契沖は幼ない頃から聡明で5歳の時母の教えに百人一首を暗記し、父が實語教を教えた時にも全て暗記したといわれています。7歳で大病にかかり、11歳の時尼崎の地を離れ、大阪今里の真言宗の寺院妙法寺の住職かい定(かいじょう)について国学を学びました。13歳で高野山に入り24歳で阿闇梨の位を得ました
 やがて寺を去り、放浪の旅をしながら独学で古典を学び、老母を養うために妙法寺の住職となりました。母の没後は研究に没頭しすぐれた多くの業績を残し、表著書には「万葉代匠記」があります。また契沖は士的気魂があり信念に対ては一歩も屈しない反面、人情に厚い性格も持ち合せていました。尼崎の生んだ国学者契沖に本居宜長等もかなりの影響を受けたそうです。(山神 一子)
 参考:日本人名大事典兵庫県大百科辞典
  
随 想
 「万葉代匠記」は、徳川光国の命で著した万葉集の注釈本で、読み方、解釈と鑑賞を加えてだれにでも読める書物にしました。その他にも古今集、伊勢物語、源氏物語等の注釈も行いました。 戻る

昭和61年9月  48地図 
      さんぺい ゆ
   48、三平井
  水に命をかけた悲しい物語
 せみが鳴き、真夏の太陽が照りかえす午後、猪名寺廃寺近くにある「三平伝説」で知られる三平井を訪ねました。
 天正3年(1575年)5月摂津平野一帯はひどい水ききんにみまわれました。日照りつづきで田圃は白田になり、村の年寄りたちが時の領主に猪名川から水を引きたいと何度も願い出ましたが許されませんでした。そこで庄屋の息子三平さんは底を抜いた樽をつなぎ水を田畑に引く事に成功、三平さんは水と自分の命をとりかえる事で農民たちを救おうと覚悟したのでした。
 昭和44年3月大井樋門・三平樋門と印した立派な樋門が竣工されたものの悲しいかな昔のおもかげはみられません。
 何げなく流れる水音を聞いていると、この用水路にも祖先の汗と涙・泥にまみれた長い間の努力のつみ重ねのあとがうかがえます。最近、劇団「かすがい」によって上演され、又「新大井音頭」のレコードも出来、大いに三平さんの心いきが伝えられています。 三平井組碑は塚口三菱電機東南に建っています。   (山神 一子)

 参考 高校演劇叢書

【交通機関】阪急塚口駅北側より市バス園田行きで猪名寺下車北へ300m   戻る

昭和61年11月 49地図 
49、武庫庄鎮守の杜
 焼き討ちにも残る鎮守の杜
…村の鎮守の神さまの 今日はめでたい…
今にも聞こえてきそうなのどかな情景です。
 阪急武庫之荘駅の北側に位置する武庫之荘本町は武庫庄と呼ばれていた荘園から名づけられた歴史のある地名です。この広場は武庫村民の鎮守の杜であると同時に戦国時代までは荘園の鎮守でもあった春日社の境内地です。樹齢数100年のむくの木が四方に枝をはりこんもりと。その下に鎌倉時代のものといわれている十三重塔(実際は七重塔)が、歴史の古さを物語る様にひっそりとたたずんでいます。近所の西村謙治さんにお話を伺いました。「この地は藤原時代に政所があったとつたえられていますが、今から160年程前、村全体が焼き打ちにあい、近隣との約束事、水利の事等、その頃の事記したものは何一つ残っていないのでわかりません」との事。西村さんの家は焼き討ちの後天保2年に建てられたもので、玄関には当時使われていた水樋・屋敷には槍、刀等歴史を語るものがありました。ちなみに秋祭りは10月15、16日です。 (山神 一子)

【交通機関】阪急武庫之荘駅北側より市バス尾浜線乗車、武庫荘下車北へ100m。 戻る

昭和62年1月  50地図 
     ごがずか  こふん
   50、御願塚古墳
  開発に残る帆立貝古墳
 
猪名野の平地に水濠をめぐらして、うっそうと茂った木立の中に古墳があります。平面形が帆立貝に似ているところから帆立貝式古墳とよばれる古墳時代中期の御願塚古墳を訪ねました。ここは阪急伊丹線稲野駅の近く、家並の向うに緑の木立が見えてきます。橋を渡って石段を上ぼりつめると江戸時代に建てられた神社の前で狛犬さまが目をむいていらっしゃる。
木々は茂り小鳥がさえずながら飛びかう姿を目で追い、しばし都会の雑踏か解放されて、遠き古代に想いを馳せていると心なごむ気持ちになります。
かつて付近には掛塚・温塚・満塚・破塚と御願塚を含めて五つの塚をなした古墳が点在していましたが原野の開発と共につぎつぎとなくなり現在では御願塚唯一つ残っています。
 お年寄の参拝が多く、夏と秋のお祭りにはお神楽があり一層のにぎわいを見せます。近くには勝海舟の父小勝ゆかりの西光寺や須佐男神社があり、古い構えの民家もあってこのあたりはまだまだ田舎が残っています。 
(山神 一子)

【交通機関】阪急電鉄伊丹線稲野駅下車、西北200m

  随 想
 10月だというのに日中は汗ばむ程の陽気です。ここは地震の被害はなかった様です。
 階段を登ると木立の間から街が見えたのに8年もたつと木立が成長し、何も見えず、たださらさらと吹く風に、さえずる小鳥の声にボーとなってしまいました。 
(H7年・秋〕        戻る

昭和62年3月  51地図 
 51、寺町・大覚寺
  檀家衆が演じる念仏狂言
 いろいろな宗派の寺院から成り立つ寺町は、年中行事も様々で各寺ならではの行事があり、四季折々の風景を見せてくれます。寺町中ほどにある真言宗大覚寺では毎年節分に念仏狂言が演じられるというので多くの善男善女でにぎわいます。
 およそ150年ほど前に念仏狂言が行われていたという書付けが襖絵の下張りから見つかり、これがきっかけとなって昭和28年の節分以来、毎年節分の日に大覚寺境内で上演されるという歴史があります。
 狂言師は檀家衆15人で銀行員、酒屋の主人、鉄工所に勤めている人達等で結成され、夜遅くまできびしいけいこを積んで2月3日の晴舞台に臨みます。この日、読経が流れる境内で日繰返し演じられます。また、かみしも姿の福男、福娘が紅白のお餅や福豆をまき、境内を埋めた人達はろうのに大わらわ・・・81歳のおばあちゃん「昔ここらはユウレイが出るいうてわてらよう通らなんだ。今はにぎやかで有り難いとや。寺町筋にはたくさんの出店が並び1日中大変なにぎわいです。(山神 一子)

【交通機関】阪神尼崎駅から南西へ徒歩5分。

  随 想
 尼崎市内で現存する寺院では最古の寺です。寺伝によると推古12年(604)聖徳太子が百済から招いた僧日羅に命じて創らせたとあり、平安初期の像といわれる日羅像も、優美な姿を今に伝えています。
 今年も節分会の季節になりました。大覚寺狂言が楽しみですね。(H8) 戻る

和62年5月  52地図 
        こ う  し ん  ど う
   52、庚申堂
  庚申の晩村中集り夜明かし
 
 桜も散り今や春まっ盛り
の好天気に恵まれた一日、武庫川髭の渡しから西国街道沿いにたっている庚申堂を訪ねて散歩しました。
 武庫川河川敷の一角にひっそりとモチの樹、常夜燈、行者堂が当時の名残りをとどめています。江戸時代髭茶屋を東西に走る西国街道は、京都と中国地方を結ぶ二大幹線路の一つで参勤交代の大名行列等で賑わったところです。幕末の禁門の変に敗れた長州兵がこの地でホッと安心し多くの槍、刀を捨てて川を渡ったとの説があります。
 西昆陽歩道橋下の庚申堂(青面金剛菩薩)、十二支の暦の上での庚申の晩には、塚の前でお祭りをして起きていました。人間の体内にひそむ三匹の虫が、庚申の夜眠っている間にぬけ出し天の帝王にその人の悪行を告げ命を取らせるのでその夜は眠らず身を慎んで過ごしました。また庚申の晩に妊娠した子は盗人になるたたりを恐れ、お経をあげて一夜を明かしました。
 最近、この近くに約2000年前の遣跡が発掘され、弥生時代中期の住居、お墓等が見つかり調査した後、今ではマンション用地になっていますがこの下に大昔の生活があったと思うと何かしら感概深いものがありました。 
(山神 一子)

【交通機関市バス宮ノ北団地行き髪茶屋下車 南100m

  随 想
庚申堂で手を合わせ西国街道を西え、武庫川髭の渡しへ行く途中の古いレストランが地震で倒壊。1年が過ぎようとしているのに今だにそのまま、髭の渡しの「髭老人地蔵ほこら」も倒壊したままです。復興の見通しはないのでしょうか。H7)
戻る

昭和62年7月  53地図 
  53、白井神社
  歯の神様として信仰される
 はがみ」さん?それどこの誰と云いたくなり
うな名前ですね。これは東
園田にある白井神
       
あめのたじからのみこと
社に祭っ
ている「天之手力男命」いう、天照犬神岩戸隠れの神話で有名な岩戸開けの勇武の神さまであり歯痛の神さまでもあります。
 その昔歯医者さんがなかった頃、霊験あらたかな御祈祷で歯痛が治ったとかで、近隣はもちろん遠く九州からでも参拝にくる人がいたそうです。しかし医学の発達により歯神としての特殊信仰は自然に衰退し、神社本来の在り方に変ってこの地区住民の氏神さまとして奉仕しています。宮司さんの奥様の話によれば、神社の前には茶店があって人通りも多く大変にぎやかだったそうです。現在では夏祭りが一番にぎやかで夜店が40店程出るそうです。
 藻川の土堤、宮園橋のそばに建っていたらしい道標「右阿の村はがみ、すぐ伊丹中山道」と刻まれているところからかなり名の知れた神社だったと思われます。
 また神社から三十米程西へ入るとそこは江戸時代に戻った様なたたずまいの屋敷が4,5軒、この一角を散策するのも映画に出ている様な気分で楽しいですよ。
(山神 一子)

【交通機関】阪急園田駅北側下車西ヘコープ園田店北   戻る 

昭和62年9月  54地図 

  54、三平井組碑
    歴史ゆたかな御園周辺
 高校野球が甲子園球場でたけなわの時期、くしくもちょうど1年前、三平井を訪ねた時と同じ真夏の太陽が照リかえす午後、今回は三平井組碑とその周辺に点在する古墳を訪ねました。 「三平伝説」は天正3年(1575年)5月、摂津平野がひどい水ききんに見まわれ、時の領主に猪名川から水を引きたいと願い出たが聞き入れられず、庄屋の息子三平さんが白分の命と引きかえに農民を救ったというお話。昭和になって御園杭ノ本に記念碑が建てられ、毎年5月には三平水利組合が主催で三平供養の法要が営まれていると組合長の岡谷さんにお聞きしました。また碑の隣には通称「スズリ橋」といって、岡院(こえん)の用水路の架橋になっていた割所形石棺の蓋石も保存されています。近くには御園古墳また南清水古墳は須佐男神社境内の帆立貝式前方後円墳で古墳時代中期の珍しいもの。その北側に隣接して前方後円墳の形跡だけをかろうじて残している天狗塚古墳。三平井組碑の近所には牛舎が十軒程建ち並び、少し田舎のにおいがしますが、のどかな雰囲気が漂っていました。 (山神 一子)  
[交適機関】阪急バス塚口下車三菱電機東南角を東 戻る

昭和62年11月  55地図 
           じん しょう いん
   55、深正院
    尼崎の「お菊の井戸」

 「一枚、二枚、三枚・・・八枚、九枚Lと井戸の中から聞こえてくる悲しげな女の声と言えば姫路城にある「お菊の井戸」ですが、これに似た井戸が尼崎は大の深正院にあると聞いてまさかと思い乍らも訪ねました。
元禄9年(1696)、尼崎城主青山播磨守幸督の家老のご飯から針が出てきた為、給仕をしていた待女のお菊が自分を殺そうとしたのだと怒り、その場でお菊を切って井戸に投げこみました。それ以後あやしげな事やたたりが続き、その為に誰も住まなくなりました。
宝永8年(1711)桜井氏が尼崎藩主となりお菊の霊を弔う為建てたのが深正院で、それ以来たたりはおさまったという伝説です。
 お寺の本堂は尼崎城の天主閣をそのまま納めたものですが、戦災で焼き払われ長い間廃寺同然でしたが昭和49年再建されました。
桜井家の菩提寺なので由緒ある墓標がたくさんありますが、戦災ですすけた墓石が何となく無気昧に感じます。
 今ではお菊の井戸はふさがれていますが、かってはこの井戸から悲しげな声が聞えたのでしょうか・・・。 (山神 一子) 
 読売・阪神間民話散歩参考

【交通機関】阪神大物駅下車南西、大物主神社西へ

   随 想
 尼崎藩主桜井松平氏の菩提寺で、五代の城主達とその妻子の墓などがあります。
 尼崎城主七代目桜井忠興の墓碑もあります。この度の地震で多くのお墓に倒れた傷跡が痛々しく残っていました。 (平成7年秋)
  戻る

昭和63年1月  56地図 
          えびす
   56、尼崎戎神社
     日本で三番目の大鳥居
「商売繁盛で笹もってこい」でおなじみえべっさん。

尼崎戎神社鎮座のあたりを“琴の浦といいます。
  ここは殊の外のよき浦なり
 これは菅原道真公が太宰
府に左遷される途中、余りの絶景に感嘆されたものでこの地を「琴の浦」と呼ばれる様になったそうです。その昔43号線が出来る前までは、海岸の近くに鎮座し、「海幸大社」「戎の宮」と呼ばれ大漁と海上安全の神様でありましたが近代になってからはむしろ商売繁盛の「福の神」として多くの人々に親しまれています。
 天にそびえ立つ巨大な大鳥居は日本で三番目に大きいものだそうです。昭和34年皇太子御成婚記念事業として、高さ18m、笠木24m、柱直径2mという朱塗の大鳥居が社前の空に高々と建立され鳥居に揚げる額面は畳三畳分の大きさでその壮厳なる雄姿はまさに尼崎のシンボルではないでしょうか。
 1月9・10・11日の3日間は約25万人の参詣者で賑わうそうです。宮司さんはとても気さくな方で「もっともっと宣伝してほしい」とおっしゃっていました。 (山神 一子)

【交通機関】阪神尼崎下車西へ徒歩5分

さすが日本で三番目の大鳥居だけあって地震にはびくともしないでふんばつています。お百度石が根元から折れ、セメントで修復し各所にヒビ割れが生じています。被害にもめげず、今年の正月はにぎわいを見せていました。(平成8)戻る

昭和63年3月  57地図 
  57、西難波熊野神社
    いろいろな梅が咲きそろう
  梅一輪一輪ほどのあたたかさ
 今年の冬はことの外暖く、難波の梅もいつも
の年からから比べると2週間程早く咲いています。 難波熊野神社は旧村のなかにお寺と隣り合せて建っています。夫婦梅、蝋梅摩耶紅梅等100本近くの梅の木が植えられており、なかでも紅玉枝垂梅は、枝が柳の様にしだれてピンクのつぼみをたくさんつけていました。

     難波津に咲くやこの花  冬籠り、今を春べと  咲くやこの花
 応神天皇、仁徳天皇の御代に度々行幸されたとき御歌を詠まれた時の一句です。
当時より梅の名所として知られていた神社も戦争で爆弾が落ち、ジェーン台風でお社が風でとんでしまったと近所の方が話していました。3月第2日曜日には、「梅まつり」が行なわれ、境内でお茶席なども開かれて一日中賑わうそうです。
 国道2号線より南に足をのばせば蓬川の梅林があります。ここも百本近くの紅梅、自梅が競って花を咲かせます。梅が終り桜の頃になるとそれはみごとな桜並木が見られます。お花見にどうぞ・・・。(山神 一子)

【交通機関】市バス 産業高校前下車、南西へ2、3分。

 震災で手水用建物が全壊し、建替えられています。本殿は大屋根ふきかえ、入り口の燈ろうも全壊で新しく、鳥居はセメントで固められています。神杜全体かたり被害がありました。その中でけなげに咲いている一輪の白梅を見て心なごむ気持ちになりました。(平成 8)  戻る

昭和63年5月    58地図  
  58、上坂部西公園
    花咲きみだれる緑化植物園
  桜並木が短い春をおう歌したあと葉桜となり、公園の縁も一段と濃さを増し、コンクリート砂漠の都市の中にいても、萌え出る緑が私たちの心をなごませてくれます。市街化が進むにつれて潤いと快適な環境づくりに緑化運動は盛んになってきています。都市緑化植物園として、緑の相談所・温室・花壇等のある上坂部西公園を訪ねました。少し風が冷たい午後でしたが子ども通れやお年寄りが散歩している姿が見られました。最近、新しく水のあるまちづくりの一つとして、子ども達が遊べる池や流れ、芝生の広場もつくられ、花壇にはパンジー、チューリップが咲きほこり、サボテン、熱帯植物の温室に入るとまるでテキサスの荒野に迷い込んだ様な錯覚におちいります。
また、緑化と共に街の景観も重視されている今、修景整備を終えたピッコロ通りを紹介します。南塚口町ピッコロシアターへの東西道路でアーチ型の照明灯を設置、歩道の一部にパイプのベンチが持かれ、座ると「どんぐりころころ」が流れ、夜になると足元が光り、ちょっとした憩いの場所になっています。 (山神 一子)

交通機関】阪急塚口駅より東南500m

  思い出
 あれから8年、ピツコロ通りの歌が流れるベンチは、座ると、今でもかわいい童謡が流れているのでしょうか。又一緒にベンチに座って話をしてくれた子ども達は、高校生かな、大学生かな!  (平成7年秋)  戻る 

昭和63年7月  59地図 
59、寺町・本興寺
   こんこんと湧き出る御霊水

 本興寺は、応永27年(1420年)日隆上人によって開山され北城内にありましたが、尼崎城築城の折、現在地に移転、市内では最大規模のお寺です。
 方丈(客殿)には襖絵や壁画が、開山堂は室町時代のすぐれた建築、三光堂は装飾的要素が豊富な桃山時代の建築、日隆上人坐像等いずれも国指定の重要文化財がたくさんあります。
 法華宗大本山である本興寺には、僧侶を養成するための学校「興隆学林」専門学校があります。朝6時のお勤めに始まり、夜9時の点呼までびっしり。仏の道をめぎして厳しい修行に励んでいます。
日隆上人開山の時に自ら掘られたと伝わる御霊水、こんこんと湧き出る水は良質で、大正5年、市に水道が付設されるまでは本庁地区唯一の水源地でした。今もかれる事なく湧き続ける水は“おいしい水と好評で喫茶店や近所の人たちが毎朝くみに来るそうです。
 最後に本興寺七不思議の一つとして伝えられているたぬきのお話し。明治の頃たぬきが僧に化けて境内に整列していたり、夜中枕げりをしたり、てんやものをとって木かげに鉢だけ重ねておく等、寺を困らせていたそうです。養寿院三浦住職さんが面白おかしく話して下さいました。 (山神 一子)

【交通機関】阪神電車尼崎駅より南西200m

 早いもので私が「尼の散歩道」を書き始めて今回で10年を迎えました。「楽しんで読んでるよ」の一言に励まされ今日まできました、今後もがんばりますのでよろしくご愛読の程を!
  随 想
 寺町の中でも、本興寺が一番被害が甚大だつたのではないでしょうか。土塀がすっかり新しくなりました。⑪寺町参照12月半ばというのに桜の花が一枝開花していました。まるで地震を知らなかったかの様に! (平成7)  戻る

昭和63年9月  60地図 
   60、寺町・如来院
   身を投げた遊女の黒髪まつる
 思いおこせば八年程前、神崎の「遊女塚」を紹介しました。奇しくも最近その遊女の黒髪が寺町の如来院に納められていることを知、神崎の遊女塚とどの様なかかわりがあるのか、寺町を訪ねてみました。
 如来院は、奈良時代、第45代聖武天皇の厄除けを祈願して、行基菩薩が神崎に、神崎釈迦堂を建立したのが始まりです。 鎌倉時代、法然上人が讃岐に流される途中、この釈迦堂如来院)に立ち寄られた時、五人の遊女が救いを求めに法然上人を尋ねました。【一心にお念仏をとなえるなら必ず往生できる」と教えると、5人の遊女は涙を流して神崎川に身を投げ、自らの生命を絶ちました
その時、橋の杭にひっかかった長い黒髪を引き上げ、ねんごろにまつられています。その後如来院は、戦国時代に城下へ、そして江戸時代に現在地へ移転しました。黒髪は秘仏になっているので見せてはもらえませんでしたが、11月1日には公開され、また今年から舞の奉納といって、京都の舞子さんを呼んで舞を舞って供養するという行事ができ、一般公開されるそうです。ぜひ一度、妖しいまでに美しかった遊女の面影を見に行きませんか・・・  (山神一子)

【交通機関】阪神電車尼崎駅より南西300m。
    思い出
 7年程前、尼の散歩道の10年を記念して組合員さんに呼びかけ十人ほどで、寺町を散歩しました。
 京都の舞子さんを近くで見て、「ワーツ、きれい!」と思わず声が、そしてお抹茶のサービスもありました。(平成年秋)

          戻る  

昭和63年11月  61地図
   61、上ノ島遺跡
    田能遺跡より以前の集落
    いかるが
 奈良県斑鳩町の藤ノ木吉
墳は謎の解明で話題をよんでいます。そこで今回はだ紹介されていない遺跡めぐりをしました。 上ノ島遺跡は立花中学校校庭北西一帯が遺跡で今から約2200年前の弥生時代初期に人々が住みついた集落です。海抜3mの低地にあり、まわりは低湿地帯でおそらく稲作に適した土地であったため近畿地方でも最も早くから人々が住みついたわけです。 土器・木器をはじめ稲の穂先を刈る石包丁等が発掘され、農耕文化もかなり進んでいた様です。しかし浜水や高潮等自然の災害で壊滅的な被害を受けて人々はこの地をすてさり庄下川上流等に移動し、その後、上ノ島の地には再び生活の場として復活する事はなかったそうです。だから上ノ島遺跡は弥生時代初期の遺物のみを出土する遺跡として貴重な存在です。出土品は、立花小学校校庭の一角にある文化財収蔵庫に展示されています。
 他に縄文晩期から弥生時代の遺跡として猪名川々床遺跡・藻川々床遺跡を探しましたが、どちらも川の中で現在では標識もなく推測するのみでした。(山神 一子)

【交通機関】市バス立花三3丁目または裁判所前下車、立花中学校の北西すみ

   随 想
 上ノ島地区も大きな震災を被りました。
立花行政区の全・半壊家屋は8800戸と市内最大でし
た。街のあちこちに空地
が目立っています。写真は文化
財収蔵庫
に展示されている農耕風景です。  (平成7年秋) 戻る 

昭和64年1月  62地図
   62、濟寺
   愛に生きる人間を描いた文豪近松
“東洋のシェークスピア”といわれる江戸時代の文豪、近松門左衛門の墓所廣濟寺を訪ねました。
 廣濟寺のある久々知一帯は新しい住宅が建ち並ぶ中に古い民家や寺社、田畑があちこちにあり、昔の雰囲気を感じさせる尼崎では数少ない町並の一つです。
 近松と廣濟寺との関わりは、荒廃していた禅寺を昌上人が法華道場として再建された時、建立本願人の一人として貢献し、現在の廣濟寺となったのです。
 歌舞伎役者を連れて参拝したり、本堂裏の小部屋に泊まって浄瑠璃の台本を書いたといわれています。
 73歳で亡くなった近松は、寺の境内の一角に葬られ、樹齢260年のモチの木に見守られて小さな墓石がひっそりと建っています。
 廣済寺の東隣、財団法人近松記念館には近松の遺品約60点が展示され、二階は舞台付のホールがあり、近松の作品の上演や講演会等に利用されているそうです。遺品は、近松愛用の黒漆塗りの文机や過去帳、浄瑠璃本の版木等で、また中村扇雀や千代の富士等各界有名人の色紙も展示されています。この記念館の管理をされている松木さんが立て板に水の如くの解説をして下さり、しばし近松の世界に没頭したひとときでした。
 記念館の北側には、池を中心に回遊式につくられた庭園のあるすばらしい公園があります。正面入口には羽織りはかま姿であぐらをかき、右手に扇子、左手に台本をもった近松の銅像が鎮座しています。
 愛に生きんとして死への道を急ぐ哀しい人間、いわゆる心中物をひたすら書き統けた近松門左衛門。昭和61年に市制70周年を迎えた尼崎市は、文化都市尼崎のイメージチェンジをねらって「近松大フィーバー」をまき起こしました。廣濟寺周辺は“近松の里として整備され、9年前の夏、取材に来た時とはすっかり変わり、時の流れを強く感じました。
 毎年11月には記念行がた<さん行われます。  (山神一子)

交通機関】市バス近松公園前下車、西へ200m        戻る 

1989年3月  63地図 
    63、琴浦神社
    毒蛇を防ぐ伝わる白砂
 2月半ばにしてはとても暖かい陽気の昼下り、阪神電車センタープール近くにある琴浦神社を訪ねました。   
 この神社には、嵯峨天皇
の第12番目の皇子、左大臣 

源融(とむる)公が祀られています。
伝説によれば寛平年間(889-898)京都六条浦川原の院(融の邸宅)にて日々浪華の浦より潮20石を汲ませられ、奥州塩釜の風景を真以て庭園をつくり塩を焼いて遊び楽しまれました。融公亡くなられた時、この地にご縁があると比処にお祀りし、神名を琴浦大明神と敬い奉りました。また境内の白砂は毒蛇にかまれないと言い伝えられ遠くより遥々載きに参詣する人があるとか聞いています。
 近くに松内町、千島町と呼ぶ町名が並び、この神のある所だけが小高くなっており、海岸の景色が他所より勝れているので“異浦”とも呼ばれていました。
 またこの神社より西へ細い道を歩くと子安地蔵尊があります。ここは市内でも唯一のお社のあるめずらしいお地蔵様です。くわしい事は9月号にて紹介します。
ちなみに昔海であった潮江地区にも潮汲の伝承があるそうです。 (山神 一子)

【交通】市バス琴浦神社前      戻る

1989年5月  64地図
   64、農業公園
    全国でも有数の花の公園
 桜も散って、春うららというより初夏のようなお天気に恵まれた4月半ばの午後、田能遺跡の近く、猪名川沿いにある「農業公園」を訪ねました。
 市民の憩いの場として四季折々の美しさが楽しめる全国でも有数の花の公園で、広さ約18000平方mもあります。ちなみに園内には4月は桜、4月半ばから5月にかけて約7300本の牡丹が咲き、6月には2500株の花菖蒲が色とりどりの花を咲かせます。また5月から7月と10月から11月には約4000本のバラが開き、あたりは良い香りに包まれることでしょう。また数百本の若竹が生えている竹薮に立って心地良い風に吹かれて、竹のざわめきを聞いていると身心共に洗われる様な気がします。
 その他、園内には約250年程前の夏、水害で亡くなった多くの人達のための供養塔や、猪名川と藻川とが流れているこの辺りの人々は、水の苦労が絶えなかった様で、用水をめぐって水争いをした「田能村大和守」の記念碑等があります。
 ちょうど牡丹の花がちらほら咲き始めた頃で、猪名川一帯ののどかな田園風景を満喫してきました。(山神 一子)

【交通機関】市バス「田能口」下車、北へ徒歩15分。

 随 想
 天高く雲ひとつない青空、バラが咲きはじめたごろから公園内には、午後の一刻を過ごす子ども連れ、仕事の合間の休憩をしている人、読書にふける人、それれの情景がみられした。 
何も言わない花たちも大地震はこわかったかな・・・。(平成7年秋) 戻る

1989年7月  66地図 
   65、甘露寺
   寺町の地蔵さんをたずねて
 町並や、家の軒先に何気
なく祀られているお地蔵さんにひかれて、寺町周辺を探訪しました。
 あのまるくて柔和な顔をしたお地蔵さんは、実はお釈迦様の生まれ変りだったのです。
 お釈加様の没後、弥勤菩薩が出現するまでの間56億7千万年(現在はその中のほんの一瞬でしかない)、その間は無仏の時代で、様の代りに人々を救済するためにお地蔵さんが存在ているのです。これは寺町、甘露寺のご住職にお聞きたものです。また甘露寺では、めずらしいお地蔵さんが祀られています。
 一般には左手に宝珠、右手に錫丈を持ち、頭を丸た僧形の像で親しまれているのですが、ここには、お釈迦様の位牌を抱いた姿、また耳に手をあてて考え事をしている姿のお地蔵さん、これらは人々を救済するにはどうしたら良いか考えているお姿だそうです。
 寺町には他に善通寺「首なし地蔵」は有名ですね。
開明町にある「北向地蔵」は、皆んながいやがる北向の方角の人々を救うお地蔵さん。町の辻々に祀られているのは子供達を交通事故から守るため、といろいろなお姿で私達を見守ってくれてます。 (山神 一子)

【交通】阪神電車尼崎駅より南西300m        戻る

1989年9月  66地図 
   66、子安地蔵
  こどもを守る木の地蔵さん
 今回もお地蔵さまに魅せられて取材に行きました。
“ながされてここに   おさまるぢぞうそん
     おいも若きもすがれ    吾が手に
 ありがたやすがる   われらをたすけんと
     くださるみてに   もれなもろびと”
 今日は、年に一度のお地蔵様のお祭りです。ここ琴浦神社の近くに祀られている子安地蔵尊を訪ねました。御詠歌にも歌われているように海から流れて蓬川の入江橋のたもとでひろわれ手厚く祀られたものです。一般にはお地蔵様といえば石で出来ているのですが、木で出来ていて、桑の木の杖をもっているので雷が落ちないという伝説があります。た村の長老が見た夢の中に姿を現わし、子どもを大切にと言ったそうです。
 お産の時にお地蔵様に供えした鏡餅を小さく切って焼いて食べる風習が2年程前までこの地域ではあったそうです。夜になるとかなり広い範囲に子どもの名前を書いたちょうちんに灯がともり、それはみごとなものです。遠方からのお参りも多く、お世話され方は大変です。この道35年お地蔵様を守り続けて来られた入江さん(82)と阪田さん(73)に伺いました。(山神 一子)

場所 琴浦町、琴浦神社   戻る

1989年11月
  67、ガスタンク
   尼崎のシンボルも3月まで
 尼崎のシンボルとして長年親しまれてきた"ガスタンク〟が、来年三月取りこわされると聞いたので訪ねて見ました。
 明治45年(1912)5月、尼崎の資産家によって尼崎ガス㈱が創立され、当初の需要家数は550戸でしたが昭和19年には、市内の20%、14,435戸の市民が使う様になりました。ガスは最初、燈用として、後には燃料として使われる様になりました。
 当工場は昭和二十年四月大阪ガスに八伊、尼崎営業所となりましたが6月空襲で建物は全焼してしまいました。戦後の復興の中で暗い感じのガスタンクも、画家岡本太郎氏のデザインで若者が未来に向って両手をかかげている「未来都市尼崎」の明るいシンボルマークに変わりました。
 高さ80mのタンクに満杯のガスは、1戸の家庭で使用するとしておよそ百年は使用出来るそうです。阪神間のガス供給拠点として重要な役割を果して、尼崎市内はもちろん、西は加古川、東は大阪まで供給していましたが天然ガスに変わり、来年3月にはあの巨大な姿は消えて8000坪の敷地は文化ゾーンになるそうです。   (山神一子)           【交通】阪神尼崎北200m

 随 想
 尼崎のシンボルであった岡本太郎氏デザインのガスタンクが姿を消しました。当時の取材で翌年3月には取り壊される予定がなぜか5年程そのままになつていました。どこに出かけていてもガスタンクが見えると尼に帰って来たという一種の安ど感がありました、とり壊された土地は尼瞭市が買い上げ、将来的には尼崎駅前から遊歩道(現在工事中断)がかかって文化ゾーンになるそうです。(平成7年秋) 戻る

1990年1月  68地図 

68、昔の貯金箱博物館
   世界中の3000点を収蔵
 小雪がちらちら舞う暮の昼下がり、尼崎信用金庫記念館を訪ねました。ここは尼崎市の旧別所村830番地、大正10年6月、"有限責任尼崎信用組合"としてスタートした赤煉瓦の建物です。昭和46年旧本店の完成後、現在地に鉄筋コンクリート造りで再建され昭和59年「昔の貯金箱博物館」として開館しました。
日本と外国の珍らしい貯金箱が3000点余り収蔵されており、日本で唯一、世界でも数少ない博物館です。その中の一部、永年に亘って収集した世界の貯金箱約700点が展示されています。貯金箱のルーツといわれている今から2100年前の中国前漢時代の青銅製のものや、日本の貯金箱では江戸時代の銭箱、明治時代の七福神、戦時中の愛国貯金箱郷土人形、縁起物、キャラクター物等々、また世界25ヵ国のカラフルな貯金箱がところせましと展示されています。その中でも面白いのがカラクリ貯金箱といって鶏の格好でお金を入れると動き出し玉子を生み落とすというユニークなものもたくさんあります。
 旧本店の一部を改造して今よりたくさんの物が展示出来る広いスペースの展示場が4月オーブンされます。明治の赤煉瓦の建物としては、ユニチカ記念館、阪神電鉄尼崎倉庫とこの記念館のみ現存するものですが唯一、都市美形成建築物の答申をして近々指定を受けるそうです。
 この記念館のすぐ近くには寺町もあり、文化ゾーンの一端として水ぬるむ春になったら一度散策をしてみてはいかがでしょうか。 (山神 一子)
【交通】阪神尼崎駅から西南へ徒歩10分

  随 想
 建物は昔の建築で被害は殆どありません。9600点の内2500点程落ち、全壊したのが15点程、600点が少しひび割れとか傷ついた位で全体的には余り被害はなかった様です。よかったですね。
 12月、神戸新聞の今年のえとのねずみの貯金箱の記事が掲載される等取材や見学者が多いそうです。団体見学は予約、個人は随時です。貯金箱も近々一万点になるそうです。ガンバッて下さい。(平成8年)  戻る

19903月  69地図 

     な きり ずか
  69、菜切塚
  旧歴五月の節句に牛まわ
 阪神国道浜田車庫を南へ約200mのところ、小さな杜があります。昔はこのあたり一帯を菜切の里、現在では菜切山町と呼ばれています。折りしも冷たい雨が降りしきる二月の寒い午後訪ねてみました。                               たけのうちのすくね
 此の地は菜切塚と称し、武内宿禰の墳墓として古来住民に心から敬われて来ました。菜切塚は浜田町の武内家(浄専寺)に伝わる古記によれば「孝元天皇曾孫武内宿禰大臣、免位の後、難波宮松原の傍に住し給う、宿彌後此所に葬る、宿禰塚此なり」と記されています。
 この塚は戦前までは環溝のある前方後円墳の型をしていましたが、昭和10年代区画整理のため環溝は東北の幹線道路となり従来の約半分足らずの広さになり、武内家の管理下にありましたが市民に親しんでもらうため菜切山緑地として市の管理に移行されました。
 土地の古老の話によると明治の頃、旧暦5月の節句には牛が丈夫になる様にと牛に化粧回しをつけ塩さばやちまきをぶら下げ、3度回らせて帰るという「牛回し」の行事の場所でもあったそうです。 (山神 一子)

【交通】市バス西警察下車南へ200m 西電話局の東側

  随 想
 大庄地域も地震の被害がかなりありましたが、ここ菜切塚は殆どありませんでした。しかし旧NTTの南側には仮設住宅が約五十軒程、軒を連ねています。戻る

19905月  70地図 

70、武庫之荘乗馬クラブ
     さわやかなスポーツに人気
 今、静かなブームをよんでいるスポーツ、乗馬に魅せられて、尼崎では唯一の「武庫之荘乗馬クラブ」を訪ねました。
 武庫之荘7丁目の友行公園の北隣りで周囲は民家で閑静なところにあります。
 オーナーの井出一人さんはとてもステキな好青年でいろいろお話を伺いました。
 背筋をピンと伸ばし全身運動なのでかなりハードなスポーツですが、OL、年輩の人、ジュニアと年代層はいろいろで特に女性の会員が多いそうです。
 馬は表情やしぐさで気持を訴えるそうで、お腹がすけば食事の催促をしたり、乗る人の気持ち次第で乗った瞬間態度が変るという、人間の性質と同じだそうです。以前は武庫川までよく歩きましたが今は禁止されているそうです。若い程やんちゃで、特に病気の時は表情を見ながら徹夜で看病しなければならないので大変きびしいとの事。
 若い人達が一人前になっていろんなレースに挑戦していくのが楽しみとおっしやる井出さんは、自分の調教した馬で競技(新馬レース)に出場、みごと第一位を獲得しました。同じ趣味をもつ奥様と二人三脚でがんばっています。 (山神 一子)

【交通】市バス友行下車、東へ300m

クラブ℡6432-5816

アーサ号、馬場馬術で優勝。神戸しあわせの村での競技をひかえてとても忙しいとおっしゃるオーナーの井出さんは、相変わらず感じの良い方でした。よく地震前に動物が知らせると言われますが、馬は余り騒ぐ事もなく、いつもと変わりなかった様です。クラブハウスが壊れ、新しく建設中でした。十一月には完成するそうです。         (平成7年秋)  戻る

1990年7月  71地図 

   71、貴布禰神社
   船だんじりと不思議な燈籠
 梅雨に入っても雨は少しも降らず、まるで真夏のような日差しのある午後、貴布禰神社を訪ねました。
 昨年50年ぶりに復元された「船だんじり」について。眠っていた「船だんじり」は、当時元気な若者達(現在70歳代のお年寄)の間でぜひもう一度再現して勇壮な船だんじりを見たい、乗りたいという強い要望のもとに復活されたそうです。
 船の上に舞台をのせ庄下川に浮かべ、笛や太鼓、踊りで大にぎわいでした。五十年ぶりの復元によって「船だんじり」の技術保存が出来たのではないでしょうか。
今年はまだ未定ですが、せっかく復活したのですから実現してほしいですね。
 この神社の話題をもう一つ。客殿の中庭にひっそりと立つキリシタン灯ろうは、高さ1.2m江戸初期のもので土に埋めた軸石の部分に人か鳥のような物が彫込まれていて灯ろう全体が十字架に見えます。
 尼崎でも信者には残酷な迫害が加えられたらしいので、お宮に参拝のふりをして灯ろうをおがんだのではないかと考えられます。
 一度見ては如何ですか!  なお、お祭は8月1、2日です。 (山神 一子)

【交通】阪神電車出屋敷駅から東南300m

 

先代宮司の江田政稔氏が二年前に亡くなられ、長男の政亮氏が継いでおられます。
 先代が始められた貴布爾寄席は今年1月で丸8年になり、「昔は神社で芝居や見せ物が催され文化の中心」(先代宮司)と言われたように地域に溶け込んでいます。
 尼崎市内の地域寄席はこのほか、でやしき寄席、ポエム寄席、藻川寄席(近松会館)立花亭落語会(立花福祉会館 尼崎落語研究会(総合文化センター)などが定期

おこなわれています。 写真はキリシタン燈ろう。  戻る

1990年9月  72 地図  
       おおもの ぬし

   72、大物主神社
   源義経の盛衰しのぶ大物浦  
夏祭りたけなわの8月はじめ、謡曲や歌舞伎でおなじみの大物浦を訪ねました。
 阪神大物駅の東側は昔、神崎川の河口にあたり大物浜といわれる浜辺でした。神崎川は淀川に通じ、京都まで船が通っていたため大物浦は四国、九州とを結ぶ瀬戸内海航路の港として、鎌倉時代海産物や木材の集積地として栄え、船宿が軒を並べる等活気ある町だったそうです。
 壇ノ浦の戦で大勝利をした源義経が瀬戸内沿いに大物に到着、京に凱旋したが半年後都落ちして再びここ大物浜から逃亡の旅に出た義経一行の悲劇のお話は現在に語りつがれています。義経、弁摩が追手を逃れ隠れ住んだとう「隠家」、静御前が化粧のため使った井戸等今は何も残ってないけどあったそうです。
 大物主神社近くの綿中万吉さん(85才)を訪ねていろいろ伺いました。この辺では奇跡的に戦火を免がれた格子のある古い構えのお家で、昔御用飛脚をしていたそうです。
上品で感じの良い綿中さんは、戦前の大物町の民家、しょう油蔵、伝説ゆかりの地、史跡等を印した地図を再現するため昔の記憶を頼りにコツコツと歩き、完成間近の地図を見せて項きました。尼崎市にとっても貴重な資料になるのではないでしょうか。  (山神 一子)
【交通】阪神電鉄大物駅から南へ200m       戻る

1990年11月  73地図 

73、神崎渡し場跡

          灘の酒や三田米を船で出荷
 文学の世界に登場する神崎橋周辺を散策しました。
「太平記」に出てくる神崎橋は、合戦がある たびに破壊されたこの橋の哀しい運命を物語り、かっては楠木正成も渡り、この橋が戦局を左右した事もあったと記されています。また700年ほど昔には、神崎の関として舟の渡し場があり、人や荷物の往来が盛んになり、自然に集落が出来、商売や宿場町が出来ました。
 この地で先祖が宿屋をしていたという高田さん(69)にお話を伺いました。
「昔はこのあたりは米屋、酒屋が多かった。灘の酒や伊丹の酒、三田米等をこの渡し場から京都、大阪方面に出荷してたんや。家の先祖も宿屋してましてなア。」と神崎渡し場跡の名残りの石灯籠の下の方を指さして教えてくれました。そこには当時の商売人の屋号や名前が刻まれていました。風化されて消えかかった河内屋という文字がかすかに見えました。当時はかなりの賑わいを見せていたと思われる本陣跡や有馬・中国街道筋の町並みも少し残っているだけで今では当時の思影も時代と共にうすれ、ただ神崎川だけは今日も静かに流れているという感じでした。

(山神 一子)         【交通】市バス神崎バス停下車、北へ50m

  随 想
 神崎川は今日も静かに流れています。このあたりは、余り地震の被害はなかった様です。石燈ろうもちゃんと立っていました。又有馬街道筋にあった住宅は、ところどころなくなって駐車場になっていました。地震のせいでしょうか。(平成7年秋)戻る

1991年1月  74地図 
 74、西武庫公園の池
   浜田川へ流れ魚が群泳
水と人間は切っても切れない関係にあると、よく言われます。今回は西武庫公園と浜田川を探訪しました。西武庫公園は武庫川に沿う住宅団地の一角にあり、一部は武庫川河川敷緑地に隣接する交通公園と四季を通じて采とりどりの花が咲く分区園からなるユニークな都市公園です。その中の一角、昔は西武庫地域の水源地であり、近くの農家の菜葉を洗う池でもあったそうです。武庫元町に住む大城眞徳(80)さんの話によれば、回りはいも畑といちご畑で夏になると亀やカエルがたくさん出てきたそうです。現在は伏流水を利用したしょうぶ池になって大きな鯉がゆうゆうと泳いでいます。今では家族連れの行楽の場になっていますが昔は生活と切り離せない源だったのです。
 また、この水は農業用水として水路は枝分かれしながら浜田川へも流れこんできます。
浜田川公園の北側にある浜田樋門は赤いアーチ型の姿を水面に写して仲々な景観です。修景整備も終って川にはいろんな魚が帰ってきました。近所の人がえさをやり、往きかう人々の心なごむ川になりました。 (山神 一子) 

【交通】市バス武庫営業所行西武庫公園前下車

公園そのものは地震の影響は余りなかったようです。しかし172号線の甲武橋や堤防の道路は、一時通行制限されるほど傷みました。池のコイやカメたちも驚いたでしょうね。  (平成7年秋)  戻る

1991年3月  75地図 

  75、時友神社
   行基が関係裏に友行神社
 寒風吹きすさび、時折り小雪が舞うとても寒い午後武庫之荘は常吉の近くにある「通りぬけの神社」を訪ねました。近所の人の話によれば・・・。昔は時友神社と友行神社は同じ境内の中にあって通りぬけが出来ていたそうです。友行神社の方が古いのですが、余り神社にお参りがないため、だんだんさびれ今では境内に県住や住宅が建ち並び狭くなった上にお参りもないそうです。それにひきかえ時友神社は僧行基に関係する神社でお参りも多くどんどん栄えて現在では中央に道路が出来、背中合わせの神社になってしまいました。お正月、お祭りにはたくさんの人でにぎわうそうです。
 また伊丹の産業道路、かつての西国街道のそばに朱ぬりの美しい楼門のある「行基寺」こと、こんりん山昆陽寺まで足をのばしました。

 この寺も壇家寺ではないため、経済的に成り立たずさびれる一方で昔は阪急塚口駅(現在)付近に一の門があったそうで想像もつかない程の広大なものだったそうです。境内の裏には四国八十八寺のミニチュア版があります。春になって暖かくなったらここで巡礼をしてみては如何ですか。〔山神 一子〕

【交通】市バス尼宝線時友下車、新幹線南側を東へ200m

 震災で新幹線の高架橋が落下し横の時友神社は、木造本殿は無事でしたが、燈ろうには倒れたキズ跡がついていました。
 しかし、南隣りの友行・須佐男神社は大鳥居が倒壊し、立派なものが再建されていました。神杜わきの切られた楠が、幹横から成長する姿に、何か強く心を打たれました。(平成8年1月)   戻る 

1991年5月  76地図 

 76、酒樽の菰造り
   日本全国やハワイまで出荷

 桜の花も終り、春の嵐が吹き荒れる午後、尼崎の地場産業の一つ、慶事には欠く事の出来ない酒樽の菰造りで知られる塚口本町にある矢野三蔵商店にお邪魔しました。ポンポンと小気味のよい大阪弁で、のれん百余年を語って下さった四代目社長はとても爽やかな方でした。
 尼崎は伊丹・西宮・灘等近くに酒造地帯があり、樽に番良い吉野杉も比較的近くに位置する等好条件に恵まれ、江戸時代の初め樽の回りにワラを巻いて保護したのが菰冠りの始まりで、神崎の渡しから江戸へたくさん出荷したそうです。
 良質のワラが取れる尼崎北部の農家で菰造りが盛んでしたが現在では同商店の他、2・3店で全国の9割近くの生産をしています。
又需要も年末年始の贈答用、慶事、選挙時期等と時と共に変ってきています。昔ながらの手造りで、後継者がだんだん少なくなっています。
 建物も昔の建築で昨年尼崎市の都市美形成とし指定されました。
ワラの香りが漂う作業場からハワイ・台湾等外国にも出荷されています。(山神 一子)
【交通】阪急塚口駅から東北300m

 震災のために母屋の屋根はかなりの被害があったのか、きれいにふきかえられていました。壁はたてにヒビわれて後遺症が残っていました。(平成7年秋)   戻る

1991年7月  77 地図       

      こうの もろなお
   77、高 師直塚
    髭の渡し場で最後を遂げ
 梅雨の合い間の晴れた午後、伊丹と尼崎の界(伊丹市)西国街道ぞいにひっそりと建つ「師直塚」を訪ねました。
 かつては将軍足利尊氏の執事として権勢を誇った高師直は、南北朝の動乱で大将尊氏に見放され、「髭の渡し場」附近で待ち伏せしていた敵軍に殺されました。
 師直が殺きれた場所については、さだかではないのですが近所の村人によって供養のために現在とは違う場所に建てられたそうです。
 近所に住む中島さん(81)に面白いお話を伺いました。
 敵に討たれた師直達が息も絶えだえ逃げて来た所をお百姓さん達が刀ほしさに首を切ったとか。また、ある場所で師直塚を粗末に扱ったため、そのあたりは逼塞(ひっそく)してしまったとか・・・。やはり塚にはお正念が入っていたのではないかと中島さんは話してくれました。今は中島さん宅の一角で供養されています。

戦乱の世を生きぬき、はかない最後を遂げた悲劇の主人公師直の塚は交通の激しい171号線の道端で風雨にさらされ「無念なり」と哭いている様に見えました。
ちなみに今年の大河ドラマ「太乎記」に登場しています。 (山神一子)

【交通】昆陽の里いづみや南、171号線の北側。

師直塚は震災の被害はなかったのですが、当時お話を伺った中島さんのお宅はすっかり変わってしまっていました。(平成7年秋) 戻る

1991年9月  78地図 

  78、船詰神社
  昔の海岸線に建つ交通神社
 時折小雨がぱらぱらと降り、木立で雨やどりをしているとせみがしゃんしゃんと鳴きはじめ、むし暑さも一段と増してくる真夏の昼下がり、東園田にある交通の神様「船詰神社」を訪ねました。
 建物は本殿が権現造りで創立年代は明らかではないが、当地は千余年前海岸線にほど近く、猪名川の河口に位置していました。当社はこの港に鎮祭された社で海上安全・船舶の守護神として奉斎されたと伝えられています。
 宮司(栃尾光一氏)の奥様は「昔はこの近くの港から京・大阪へいろんな船の出入りがあったんじゃないですか。昔はこのあたりは猪名川の堤防だったそうですよ」と話して下さいました。
      とりのいわ くすぶねのみこと
御祭神は「鳥之磐楠船命」とよばれており天照大神よりの使者に従って、大国主命の許へ行き、出雲の国譲りの大業を成し遂げられた神様として「古事記」に記されています。元来、海路交通の神であるところから交通安全の神様として祈とうを受ける人が多いそうです。
 とても広い境内をチャボの親子が5・6羽楽しそうに散歩しているのが滑稽でした。(山神一子)

【交通】阪急電鉄園田駅より北東約500m

 震災の被害はほとんどなく、10月17・18日のお祭りの準備に大わらわ。邪魔にならない様にチャボの親子が散歩していました。この親子四年前の取材の時の孫かも知れません。それだけ時は移り変わっているのですネ。(平成7年秋) 戻る

1991年11月  79地図 
   79、有馬街道
   湯治の旅人や近松も往来
 街の片すみにそっと建っている「道しるべ」を見た事はありませんか。車社会の現代の人々には、見当もつかない時代の標識だったんです。この道しるべを見ていると昔の人々の行きかう姿が浮かんできます。
 神崎村(神崎町)のはずれの中国街道と有馬街道の分岐点に建っている非常に立派な道標で、東面には地蔵尊像を浮き彫りしており「右、伊丹中山、左尼崎」と刻んであり市内では逸品だそうです。
 街道に面した通りで酒屋業を営んでいる近藤さんに伺ったところ「昔は、この近くに本陣があったので大名行列もよくあったと聞いている。また戦前は阪急バスが通っていて道がせまく、ほこりはたつし、迷惑だった」と話して下さいました。
 近くにもう一つダイセル工場の塀沿いに道標がありました。昔、京都・大阪方面から有馬温泉へ湯治に行く道筋を旅人達は「有馬街道」と呼んでいました。戸時代、近松門左衛門等多くの人々がこの街道を通って久々知の広済寺を訪れたと思われ、人々の往来で大変にぎわっていたと云われています。現在は思影はありませんが、道標に向って目を閉じて当時を偲んでみては如何が・・・。(山神一子)

【交通】市バス西川下車、神崎浄水場を北へ  戻る

1992年1月  す さの う  80地図 
 80、戸ノ内素蓋鳴神社
   御神体救った鯉を食べない
       くらはしのしょう
 現在の戸ノ内が椋橋庄と呼ばれていた頃の伝説を耳にしたので訪ねてみました。
 いつの頃か、昔、大水にあって家もお宮さんも浸かりそうになった時、コイがたくさん寄ってきて神様を川向の庄本(豊中市)にお移ししたとか、また、やはり大水の時に御神体がコイの背中に乗って流れついたのでお奉りしたのが、現在の「戸ノ内素蓋鳴神社」であって、それ以来村の人たちは、コイを捕らえたり食べたりしないようになったそうです。村の人が他所で捕らえたり食べたりしても激しい腹痛をおこすし、他の土地から来た人でも村にいる間は、食べないように注意するほどでした。
「戸ノ内では今でもこだわりをもっている年輩の人は、料理屋でコイを出さたら気にしながら食べると話してくださった上田さんのお宅は旧家で、玄関を入ると天井から大きな心太鼓がぶら下がっており、壁には旧猪名川を汚さな"定め"の触書がありました。
 ご主人曰く「コイの伝説だけではどうしようもないが、何とかして村おこしをして文化を残していかなければ!」と、情熱を燃やしおられました。(山神 一子)

 【交通機関】阪急園田駅より市バス戸ノ内2丁目下車

地震で鳥居が倒れているという話を聞いて、相当被害があったのかと訪ねましたが、鳥居はちゃんと立っていました。手洗いの所が全壊していました。
 境内の木の枝を切ったのでバチが当たって大地震になったと近所の人が言てたそうです。冷たい風のなか、珍しい輪くぐりが目に映えていました。

 (平成8年Ⅰ月)  戻る

1992年3月   81地図 
    びゃくい かんのんじ
81、白衣観音寺

 伊丹城主跡取りの妻が自害
 武庫之荘7丁目に遺跡が発掘されたという報道を聞き訪ねましたが、捜しても捜しても見つからず、近くの中学校へとび込み聞いたところ、もう工事がはじまっているとの事。とにかく現場に行ってみると何と鉄骨がニョキニョキ、マンションの基礎工事にかかっていました。実際には見られませんでしたが、「南戸板遺跡」という集落の支配者クラスの人を埋葬したとみられる弥生時代中期のお墓
(方形周溝墓)の一部と土器片など約千点が発見されました。尼崎市内では田能遺跡に次いで7例目です。
 遺跡の場所より北へ200m程歩いた所に真言宗のお寺「白衣観音寺」があります。本尊は、とてもやさしい顔だちの観音様です。本尊の胎内仏は、5・5㎝の小さいもので開祖弘法大師の姿に似ていて、これを見た者は一夜にして死ぬと伝えられ、秘仏となっていて公開してもらえません。
 このお寺は、行基が草創した昆陽寺塔中の一院にして十六坊の一つと伝えられた古刹であります。史実は定かではないが、天正7年伊丹城落城の時城主の息子の荒木村次の妻がここで自害したとの悲話も残っています。(山神 一子)

【交通】阪急庫之荘駅より市バス友行下車北東100m

お寺の周りは、まだまだ田んぼや畑がありのどかな田園風景が見られたのですが、1月の大地震で変わってしまいました。ここ白衣の観音寺も表門だけ残り本堂他つぶれてしまいました。お寺さんの話によると「一時はどうなるかと思いましたが、檀家の支えで目途がたち工事にかかりました。来春には完成予定です」と少しは明るい表情。観音像は無事でした。              戻る
現在、お寺の中はいろんな機械が入り工事中です。一日も早く完成を!(平成7年秋)

1992年5月  82地図  

82、五兵衛さんの墓

 田つぶしに反対し打ち首に
 4月とはいうものの初夏を思わせる様な好天気の昼下がり、武庫庄(武庫之荘5)の“五兵衛さん”のお墓を訪ねました。
 昔、殿様が田んぼを池にすると言いました。すると武庫圧の五兵衛さんは「田んぼをつぶしたら米が作れんようになる」と言って反対しました。殿様のすることに反対したので、五兵衛さんは首を切られることになって、庄屋の門のところに連れてこられました。そこへ遠くから殿様の早馬がかけてきて「その首をはねるのを待て」と言ったのが遠かったため「その首早くはねよ」と聞き違え、五兵衛さんは首を切られてしまったのです。誤りがわかり村中の人が悲しんで、池を作ることになっていた田の真中にお墓を建て、命日には仕事を休んで村中で供養しました。
 さて現在は住宅の建ち並ぶ奥まった所にひっそりと“南無阿弥陀仏”の石碑が建っています。偶然にも三反田の延光寺住職さんがお参りに来られ「子孫の方がこの近くに住んで居られて檀家ですので月に一度はお参りに来てます。過去帳もありますよ」とおっしゃってました。土地の人は「首塚」さんと呼んでいます。(山神一子)
 参考資料・尼崎の伝説  

【交通】市バス武庫之荘4丁目北へ信号東、平田  戻る

1992年7月  83地図  
   83、大関琴の浦

 明治時代の尼崎出身名力士
 妙法本照院琴浦日熊信士、姓は伊東、名は熊治郎。文久3年尼崎に生まる・・・。
寺町本興寺にある高さ3mもある墓碑で裏面には、大関の生涯が刻まれています。
 江戸の終わり、尼崎は中在家の蒲鉾屋さんに誕生。生まれたときから大きかった熊やん(愛称)は、グングン成長し、あるとき貴布禰神社の祭りで山車をひき、みりんを振る舞われ、一升飲み干しても酔った気配もなかったそうです。
 21歳のとき、大阪相撲の猪名川部屋に入門。シコ名を何回も変えた後琴ノ浦に。ふるさとの誇りを抱いて土俵にかけ、38歳で大関に昇進しました。
 大阪相撲は元禄15年に始まり、全国にあった力士団は大阪めざしてやって来、やがて江戸に中心が移りましたが、大阪相撲は大正末頃まで続きました。
 尼崎中央商店街にある蒲鉾の老舗「桝千」の娘さんにお話を聞きました。「おばあさんのひいきぶりは並のものではなかったらしい。昔は電気がなかったのでおすもうさんが石うすで魚の身を練っていたそうね。カ持ちだから・・・。琴ノ浦も手伝う替りにご飯を食べさせてもらっていたそうよ」琴ノ浦が活躍した時代は遠くになってしまいました。  (山神一子)

【交通】阪紳尼崎駅より南東三百メートル本興寺内

  随 想
 本興寺はかなりの地震の被害を受けたのに開山堂のうしろにある大関・琴ノ浦の墓碑は、堂々と立っています。一際目だっ大きな墓碑は、天下に名をとどろかした事を物語っています。お墓は本堂左奥の墓地にあります。
(平成7年秋) 戻る

1992年9月  84地図  
       いわながひめ
   84、磐長姫神社
             このはなのさくやひめ
    美しい木ノ花開耶姫が妹
 真夏のうだるような暑さの昼下がり、武庫之荘にある磐長姫神杜を訪ねました。
 あたりは旧村のおもかげの残る閑静な住宅街の一角に建っています。玉垣などはまだ新しいのですが、境内にはかなりの年代を経た樹木があり、折しもせみの鳴き声に暑さもひとしおでした。          おおやまつみ
古事記、日本書記などに書かれている山ノ神大山舐の長女、磐長姫命を御祭神として祀っています。
 磐長姫には、妹姫の木ノ花開耶姫がおられ、この姫はとても美しく皇孫ににぎの尊(天照大神の孫)の妃として三人の尊を生みました。花木の神とも言われました。それにひきかえ姉の磐長姫は、みにくい容姿で磐石の神と言われました。姉妹はとても仲が悪かったようです。
 昨年、尼崎市で磐長姫を主人公にしたシナリオが舞台化され、人気を呼びました。しかしこの物語がこの神社と関係あるかどうかは定かではありませんが、磐石の神と言われた通り、この神社には長寿・延命と家運長久を祈る人々が訪れるようです。 (山神一子)

 参考 神皇正統記 神道大辞典

(交通) 阪急武庫之荘駅 南側線路沿い西へ踏み切り北へ  戻る

1992年11月  85地図 

85、伊丹・有岡城
 石牢に秀吉参謀黒田官兵衛幽閉
 10月半ば、秋も深まりゆくある昼下がり、尼崎より少しはずれますが、伊丹の有岡城跡を訪ねてみました。
 昭和50年よりの発掘調査でわかったのですが、出土した石垣にはたくさんの供養塔石が組み込まれていて、これは石牢の一部ではないかと推定されました。
 この石牢の中には、豊臣秀吉の参謀格であった黒田官兵衛が一年もの間幽閉されていました。それはなぜか? 天正6年(1578)秋、伊丹有岡城主荒木村重は織田信長に対し謀叛を起こし、そのとき黒田官兵衛が有岡城に説得に出向いたが捕らえられて、うす暗い石牢に幽閉されました。約一年後、伊丹有岡城は信長勢の攻撃を受けて、強固な城もついに落城。この直前に官兵衛は救出されましたが、長い間牢に座ったままだったので足が弱くなって歩けず、しばらく有馬で湯治しましたが、生涯足は不自由になってしまいました。
 ちょうど今、テレビで「信長」を放映していますが、村重が謀叛を起こしたところで興味深いものがあります。伊丹有岡城跡の廻りは、駅前再開発ですっか
り整備されていますが、つわものどもの夢の跡がちょっぴりうかがわれました。(山神一子)

【交通】JR伊丹駅前

  随 想
 伊丹も、震災で阪急伊丹駅が全壊するなど大きな被害を受けました。全・半壊は2万戸にのぼり、仮設住宅が1千戸建てられています。数々の歴史をもつ伊丹市の復興を願わずにはいられません。
 JR伊丹駅の有岡城跡から西へ抜けると、白雪の酒造や柿衛文庫館、美術工芸センターが見どころでしよう。(平成7年秋)戻る

1993年1月  86地図  
86、西川八幡神社
  湯治客が参る厄除けの神様
 12月も半ばだというのにとても暖かい昼下がり、潮江診療所近くにある「西川八幡神社」に行きました。こじんまりと整ったお宮が建つ八幡神社は、大陸文化を採り入れ、我国の発展に大きな功績を残された神様で、文化神として、又厄除の神様として多角的なご神徳をもっておられるそうです。
 創立年次は不詳ですが境内に1684年善兵衛奉寄進、手水鉢と又社殿内には1672年大阪五兵衛奉寄進御幣が奉納されており、それ以前の鎮座であると思われます。
 平安の昔、神崎の浜は京への宿場として繁栄しました。神崎の渡し、本陣も近くにあり、又有馬街道の間道にも近く有馬に湯治に行く人たちが行き帰りの道すがら立寄ったように思われます。とにかくたくさんの参拝者があったと伝えられています。
 又神社の西北角に「尼崎藩界碑」が建っています。この碑は尼崎に2基ある中の1基で「従是東尼崎」と刻まれています。これと同じものが武庫川の近くの岡太神社(西宮)の境内にもありました。(山神一子)

【交通】JR尼崎より市バス西川又は神崎橋下車3分  戻る

1993年3月  87地図  
87、旧塩田邸
  昔の庄屋の風格を残す豪邸
 2月に入って三寒四温の温かい昼下がり、尼崎信用金庫の富松寮地所内にある旧家を訪ねました。阪急武庫之荘駅より500mほど北東、近くに富松神杜があり旧家もありますが、寮の廻りはほとんど近代的な家が建ち並ぶなかでも昔の町並みが残っている閑静な所です。
 以前は塩田半兵衛さんの家で庄屋さんでした。桧の一枚板の門を開くと1千坪の敷地には右手に広い庭園があり、正面に玄関のある二階家屋が建っています。
 かつては池に鯉が泳ぎ、枝ぶりの良い松があり、雪でも降れば、それは見事な庭だったといいます。
 昭和35年頃、尼崎信用金庫の寮として購入し、一階は土間を板張りにして太い梁の見える大広間は剣道場として寮生の娯楽の場となり、また職員の研修会等の場として使用、二階は寮としていましたが、建物の老朽化に伴い隣の土地に鉄筋の寮を建て現在では使用していないため、手人れが行き届かずそのままになっています。8年ほど前までは、市内の旧蹟めぐりの一つとして大勢の人が立ち寄ったそうです。管財課の話によれば次の計画を考えているとのこと。無くなる前に一度散策の道すがら如何・・・。 (山神一子)

【交通】市バス富松北口南

 一時は旧蹟めぐりのコースとしてにぎわった旧塩田邸も1月の大地震で木造の立派なお屋敷の屋根が落ち、お蔵もつぶれ、近所迷惑になるので全部とり壊され、更地になつてしまいました。美しい庭園も荒れはて、ここでも地震の強烈さを感じさせられました。尼信管財課のお話では現在の所、今後の計画は考えてないそうです。(平成7年秋)    戻る

1993年5月  88地図 

88、はかり資料館  
      はかり

 江戸時代の秤など千点展示
 春とは名のみの4月中頃.西長洲八幡神社南の「はかり資料館」を訪ねました。
 平成元年オープンした資料館には、江戸時代から明治・大正・昭和と歴史を物語る秤たちが所狭しと展示されています。元禄時代、主に砂金等を量ったわずか20㎝ほどのさお秤や、両替商で貴金属や宝石を量った針口天秤、また、数百年前にインドで使われたビスマーと呼ばれるさお秤等、古い物、新しい物と1000点ほど展示されています。
 ご主人の山下喜吉さん(64)は、戦時中、海軍で人間魚雷を手がけた経験もあり、戦争が終わって職を探している時、人募集の一枚の貼り紙ではかり屋に弟子入りしたのが昭和24年、それから秤一筋に現在があるそうです。古い物を捨てることに憤りを感じるとおっしゃる山下さん、日本でも数少ない秤の権威者です。 NHKの「琉球の風」のなかで医者が使っていた秤は明治時代のものだったと指摘されました。テレビ、新聞に何回も紹介されて一躍有名人、と同時に医療生協の組合員でもあります。資料館見学は電話(481-4447)をして、ぜひ一度ご覧になってはいかがでしょう。     (山神一子)

【交通機関】尼崎市バス西長洲下車、八幡神社南

 随 想
 この度の地震でかなりの被害があったのではないかと心配して訪ねますと、幸いな事に余り被害はないとの事で安心しました。若干、こわれたものもありましたがたいした事もなく、資料的なものは形が整っていれば良いし、値うちのあるものはこわれなかったそうです。まずまずは良かったですネ。(平成81)  戻る

1993年7月  89地図 

    じょうこうじ
 89、浄光寺 
 弘法大師が創建戦乱で焼失
 どしゃぶりの雨もあがり夏を思わせる日差しにまぶしく映ったあじさいの花。
今回は、常光寺3丁目にある浄光寺を訪ねました。
 現在、浄光寺は真言宗総本山善通寺派の末寺で、天長六年(828年)弘法大師が創建されたもので、七堂伽藍を備えた大きなお寺でした。御本尊は観世音菩薩(約六糎)です。
 昔、昆陽にいた釈恵満という僧が海辺でピカッと光る観音様を見つけ、小さなおやしろを造って大切におまつりしました。やがて釈恵満が亡くなった後、弘法大師が諸国巡歴の途中この地に立ち寄り、立派なお寺を建立され浄光寺と名づけられました。そのことが近在に響きわたり、浄財をつのり、いっそう立派なお寺となり、近所の人々の精神修養の道場となりました。
しかし天正七年、伊丹の城主荒木村重が織田信長に謀叛を起こし敗れて、落城のとき寺は焼失してしまいました。その後寺は再建されました。豊臣秀吉の時代に寺名がそのまま村名になりました。
 桃山時代に描かれた「浄光寺縁起図」は尼崎市文化財に指定されており、博物館に寄贈されるとか住職さんにお聞きしました。
 
(山神一子)

【交通】市バス常光寺下車  戻る

1993年9月  90地図 
90、杭瀬熊野神社
  楠の繁みに安産、子安の池
 台風一過、前日までよく降っていた雨も上がり、8月になって久し振りの夏らしいお天気に、せみもシャンシャンと鳴き始めました。
 阪神杭瀬駅のにぎやかな所から北へすぐ、国道2号線に面して杭瀬熊野神社が建っています。
 都会の雑踏の中に建っているにもかかわらず、鳥居を一歩踏み入れば、境内には樹齢千年という楠の大木がうっそうと繁っていて、まるで別天地です。
 御本殿は、元和年間(17世紀)に造営されて、素盛鳴命・応神天皇等がお祭神として鎮座しています。
また、境内右手に「子安の池」という池があります。

 その昔、池を掘っていたところ、石の地蔵さまが現れたので池のほとりにお祭りしました。いつの頃からか、妊婦がこの池の水を飲めば安産するという言い伝えがあり、池の中央に神功皇后をお祭りしています。現在では水は全然ありません。
 4年に一度、例大祭日に盛大な稚児行列が行われるそうです。神社の向かいに大きな公園があり、お年寄りたちの憩いのひと時になっていました。(山神一子)

〔交通機関〕阪神杭瀬下車、北へすぐ。
      阪神バス北杭瀬東へ2、3分   戻る

1993年11月  91地図 
 91、大島神社
   里人に親しまれた鎮守の森
 のどかな田園風景がみられ、どことなくまだ田舎のにおいのする大島地区、今稲刈りが終わったところです。大庄北中学の西側に市の公園と一体となった広々とした境内の大島神社があります。鳥居の前には、樹齢300年は悠に過ぎた楠が旧街道を見下ろした格好でそびえています。
 神社の創立は不詳ですが鎮座地は、明治・大正・昭和の初め頃までは武庫郡大庄村の内であり、古く荘園時代は大島荘といい武庫川と蓬川の間に位置する村里にありました。昔は、武庫川は今よりも東を流れていましたが、中世以来、氾濫などで河筋が変わり現在のような流れとなりました。
 1660坪の境内には元禄3年の手水舎、宝暦6年の狗犬、寛政年間の常夜燈等、今から2、300年前の盛んな神社の様子がうかがわれます。又樹木や竹等が密生し、鎮守の森としても里人たちに親しまれていました。
すさのおのみこと
 素蓋鳴命を主祭神として夏祭り(8月10、11日)には境内いっぱいに氏子の人達の絵作品をあしらった燈籠が並び多くの参詣者でにぎわいます。(山神一子)

〔交通機関〕市バス東大島または今北下車徒歩5分

 お正月に訪れると、大勢の参拝者でにぎわい、特設テントでは神主さんらがおみくじ売りなどに追われていました。
 燈ろうには倒れた傷が痛々しく残っていましたが、本殿はコンクリート造りなので被害を免れたようです。(平成8年1月)  戻る

1994年1月  92地図 
92、神崎一心地蔵尊
     まさしげ たかうじ
   楠木正成と尊氏が神崎の戦
 今年も終わろうとしている12月20日、はげしい雨の中、神崎橋の近くにある「神崎一心地蔵尊」を訪ねました。
 建武の中興の恩賞に不満をもち反逆して鎌倉に走った足利尊氏に後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が迎え討つが尊氏の反撃にあい京都へのがれる。再び京の都で激戦、今度は尊氏軍が敗れる。尊氏軍は丹波から摂津に向かい、湊川の宿で新田軍を迎え討つ。この時楠木正成は遅れて参加、合戦の様子を見て、正面からは不利と神崎の辺りから神出鬼没、一心をこめた戦法で圧勝し、尊氏軍は遂に九州へと逃げ延びる。世にこれを神崎一心の戦いといいます。昨年12月、区画整理のため、高架下から移されてきました。2m近くもあるお地蔵様に願かけに毎日お参りに来ているという年輩の方にお逢いしました。
 又雨の中、菊の花をお供えしている近くのマンションに住んで居られる奥さんにお話を伺いました。30年余り前には神崎橋は木造の低い橋であった事、3年前子どもさんが重い病気になりこの地蔵尊に一心にお参りしたら今では元気になられた事、とても感じの良い奥様でした。(山神一子)

参考 尼崎の文学

【交通機関】杭瀬駅より北へ1.km神崎橋北西詰   戻る

1994年3月  93地図 

 93、元浜緑地
  遊具や水遊び花、緑の相談
 2月だというのに春を思わせる好天気の午後、昨年6月にオープンした元浜緑地を散策しました。
 尼崎市の南西部に位置し、神戸製鋼所グラウンド跡地というだけに周りは工場ばかり、その中に別天地の様な広々とした元浜緑地は、全国で初めてつくられた大気汚染対策の緑地です。豊かな緑を生かした池、芝生広場、樹木等による大気の浄化や市民の憩いの場としての役割を果たしています。
 子ども達に夢と冒険、豊かな想像力を養う遊具や、わんぱく池には手こぎいかだ、水鉄砲等の水の遊具や樹形の噴水等ユニークな池です。又、水蓮やとんぼ等水生植物、小動物が育つ池もあり四季折々の花が咲きウグイス、メジロ等野鳥のさえずりを聞き、身近に自然とふれあえます。
 管理棟は小高い丘の上にあり、緑地利用者の案内や緑の相談、花の展示会、講習会等が行われ、ビデオライブラリーもあります。尼崎緑地協会のお兄さんは「現在、半分完成しており二年後に全部完成の予定だけど、まだまだ宣伝がたりなくて知らない人が多いので宣伝の方よろしく、春には植木市もありますよ」と。暖かくなったらぜひ散策を。(山神一子)

【交通機関】阪神電車センタープール下車南西500m

管理棟 ℡6411-1187

1月の寒い日に訪れると、冬の陽差しのなか子ども達が元気に遊びまわっていました。

緑地の東半分は工事中で、平成10年頃に駐車場、ロングすべり台、遊具、広場などが完成するようです。
 公園を東へ300メートルほど行くと、大勢の若者がゴーカート、ローラーホッケーなどで歓声をあげているフイールドに出ました。(平成8年1月)  戻る

1994年5月  94地図 

 いくしま
 94、生島神社
  生島弁財天を祭る尼崎祖神
 桜前線もあっというまに通り過ぎ、ポカポカと居眠りしたくなる様な午後のひととき、立花小学校の近くの生島神社を訪ねました。
 創立は、仁徳天皇の御代と伝えられ、大地と命の営みを続けている一切を守る神様をお祭りしています。
 立花地区の上ノ島、栗山、大西、三反田の各町は昔は「生島」と呼ばれていました。仁徳天皇が当地方に行幸の際、生島巫神をお祭せられ、尼崎の祖神として鎮座、明治維新前迄は、生島明神・生島弁財天として広く知られ、その後(明治6年)生島神社と改められました。
 境内には、弘法大師像を安置している大師堂があります。この様に神様と仏様をお祭りしている神社は日本でもめずらしいそうです。
宮司さんのお話では、「この神社はとても由緒あるもので、重要文化財の価値がある」とおっしゃっていました。おりしも若い男性がひとり、ことの外熟心に手を合わせておりましたが大学合格のお札参りだとか・・・。この様に子供の発育、知恵を守り、安産の守護神として多くの参拝者があります。しだれ桜がとてもきれい!(山神一子)          【交通機関】市バス立花支所前で下車、東へすぐ。

随 想
 神杜の写真アングルがとても良いの表紙に書きました。
 しかし大震災で入口大鳥居が根もとから折れ、現在は撤去、本殿前の烏居は補強といった状態です。お正月参拝者の多いのにびっくり、その中にヤクルトの池山選手の姿を見ました。(平成8年1月)   戻る

1994年7月  95地図 

  95、猪名川自然林
  昆虫飛びかう緑豊かな公園
 6月は環境月間であるということで、梅雨のあい間の晴れた昼下がり、緑の中を歩きながら、自然の観察が出来る猪名川自然林と農業公園を訪ねました。
 市北東部に位置する猪名川自然林は、かつて猪名川の堤防だったところです。
 緑豊かな猪名川公園と自然が残された猪名川風致公園があります。公園に入ると「ワァー」という歓声が聞こえてきます。お年寄りたちがゲートボールを楽しんでいました。ベンチではご夫婦らしき男女がカラオケの練習をしています。このように自然の中で、思い思いの午後のひとときを過ごしている姿は、ほほえましいものを感じました。
 また、自然林の中に植物や昆虫を育てるための「自然復元実験園」があります。
ここにはチョウチョウをふ化させる「チョウの家」があり、生き物が生息できるように柑橘類の木を植え、落ち葉は堆肥になり、水辺はコンクリートを使わず、石をそのまま積んで造るなどの工夫をこらしています。             
 
農業公園は、今が盛りの花菖蒲がとてもみごとでした。カメラ片手に愛でる人たちでにぎわっていました。(山神一子)

【交通機関】阪急園田駅より市バス東園田1丁目下車北へ。農業公園は競馬場北

公園東、猪名川堤防に、公園案内板と萬葉歌碑が立っています。
              しなが鳥 猪名野を来れば 有間山  やどり
                                                     夕霧立ちぬ 宿はなくて

春になって暖かくなったら、農業公園から、田能遺跡、自然林へとほどよい散歩コースです。何度行っても道に迷って、ぐるぐる同じ道を行ったり来たり。
 地震の影響は余りなく美しい花々が咲きほこっていました。(平成7年秋) 戻る

1994年9月  

             き あ    しょうゆ
 96、尼の生揚げ醤油
  幻のしようゆ40年ぶり復活 
 尼崎の名産「尼の生揚げ醤油」をご存じですか・・・。
尼崎の醤油産業は、「舟弁慶」で知られる義経と静御前の涙の別れの地、大物ケ浦あたりで興ったといわれます。江戸の時代から、明治、大正時代にかけて尼崎の醤油は、「尼の生揚げ」と呼ばれ、独特のウマ味と芳醇な香りをもった優れもので重要な産物のひとつでした。
 「生揚げ」とは、生一本、生娘などに通じ純粋、混ざりけなしという意味です。
幸いにも当地には、良質の大豆や小麦が穫れた事、舟の地の利の良さもあって全国に出荷された他、アメリカ、カナダ、ロシアにも輸出され、尼崎の伝統産業になりましたが戦時中の統制経済と戦後の大手資本の進出で生産を中断・・・、昭和59年に地元経済人で保存会を結成、翌年40年ぶりに「幻のしょうゆ」が売り出されました。
 最良の材料を使い、極寒(1月)に仕込み、約6カ月後にしぼり、7月に製品として世に出ます。

竜野市のヒガシマル醤油の協力を得て限定生産され、今年も7月から京阪神の百貨店で発売されています。冷やっこにかけてどうぞ!(山神一子)

問い合わせ先;開明産業㈱ ℡ 06-6417-7111  戻る

 1994年11月  97地図 

97、七松八幡宮
  信長、村重家臣数百人を処刑
 深まりゆく秋、10月も半ばを過ぎた午後、伝説の地を歩いてみました。
 尼崎市役所から西へ5分程歩くと村の中の鎮守といった風情の中に立派な社殿が建っている七松八幡神社があります。
 この八幡神社の創祀は、後一条天皇の時代(今から約980年程前)、源頼信が当地を訪れた折に、一人のわらべがこの地の農民の窮状を訴えたのに感じ、一本の松の樹の下にあった小祠を改築し、その社の周囲に松を六本植えさせたところから七松の地名の由来ではないかと思われます。
 又現在の水道局のあたりに芦原という地名が残っていますが、戦国時代、芦が生い茂りこの辺りがあの荒木村重(伊丹城主)の謀叛に織田信長が村重の上級家臣の妻子122人を処刑し、続いて下級家臣の妻子、年若い侍等512人を四軒の家に閉じ込め焼殺した処刑場の跡と伝えられています。
 戦国動乱期に彗星のごとく現れ、消えていった武将荒木村重は一旦は、「天下の主たるべき者は信長」と信じ、「日本一の人物也」と評価された間柄であったが、いつか亀裂が生じ謀叛の狼煙(のろしをあげました。(山神一子)
【交通】七松神社は市役所北西300m    水道局は東200m

随 想
  地震で鳥居上部が壊れ、下に落ちたままになっていました。コンクリート造りの本殿は無事でした。
 尼崎厄神としてお正月には大勢のお参りがあったようです。(平成8年1月)戻る

1995年1月  98地図 

 98玉江橋・城址公園
   歴史・文化の街駅前整備進む
 尼崎市では、「にぎわい創生、あまがさき」を都市像として、市民生活の豊かさが実感できるまちづくりの上に、人・物・情報がいきいきと交流する都市実現に向け、巨額な財政を投じて各地域で整備事業が進められています。
 今、尼崎の玄関口ともいうべき、阪神尼崎駅周辺が変わりつつあります。一昨年11月都市ホテルがオープンまたコンピュータ制御によりボタン一つで6つの舞台や客席のパターンが選べるアルカイックホールオクトもオープンしました。
街の中心を流れる庄下川も魚が住める程きれいになり、玉江橋から北に両岸の整備が進められ、春の宵の散策はいかがでしょうか。
 また、阪神尼崎駅南東(元県立尼崎病院跡地)に中央図書館が出来、城下町を思わせる城跡公園が出来ていますが、まだ3分の2ほど広がり、多目的広場、歴史博物館等も予定されています。これらをつなぐ立体的遊歩道の建設も進められており、全て平成8年か9年に完成予定だそうです。
 高度経済成長を支えてきた工業都市のイメージから寺町、近松に代表される歴史と文化のまちに転換出来るのでしょうか。    (山神一子)

【交通】阪神尼崎駅東側

随 想
 ちょっと私の感想を。庄下川もきれいになり公園も完成し、なるほど昔の尼崎城下を偲ばせる情緒を感じさせるのですが、ふと中央図書館に目をやると「おやおや」と思う建築のミスマッチを感じます。
 しかし、岸辺もきれいになり、ゆりかもめが冬の陽差しを背に乱舞し、ホッとさせてくれます。   戻る

19953月  99地図 

99白龍神社
  なまずと龍が人助け
 1995年1月17日午前5時46分、突然の大地震が阪神・淡路島を襲い、一瞬の間に恐怖のどん底に落ちてしまいました。地震といえば「ナマズ」を思い浮かべますが、今回はその伝説を追ってみました。
 昔、蓬川橋の近くに「奥池」という貯水池に大きな白いナマズが住んでいました。池にはたくさんの魚が生息しています。ある大雨の日、その魚を狙って大ウナギがこの池に侵入してきました。これに困ったナマズは、庄下川の宮で川の守護神、白龍に助けを請い大ウナギを退治しました。今より600年ほどの昔、当地は長洲の浜と称し、庄下川の清流とともに人々が住み、西長洲の誕生となりました。庄下川が大水で氾濫した時、龍が出てきて人々を助けたというお話もあるそうです。これら伝説をもとに、八幡神社境内地に守護神として白龍大明神を安置祈念しましたが、毎年の庄下川の氾濫により総合文化センター北西に水神として鎮めました。歳うつり世はかわりて庄下川の改修により、現在は庄下川公園(西長洲町三丁目)のそばに白龍神社と呼ばれていた祠が残っています。 (山神一子)

【交通】県道尼崎・池田線玉江橋北西300m  戻る    

19955月  100地図 

  100、寺町
  多くの寺院が地震で被害
 尼崎の寺町は全国の寺町の中でも早い時期につくられ、国・県・市指定の文化財をはじめ、貴重な文化的遺産・歴史的資料が数多く残っております。また、城下町尼崎の面影を今日に伝える貴重な地域でもあります。しかしこの度の地震でかなりの被害をこうむり、寺町全体の復興が急がれています。
 寺町の門をくぐると全昌寺。ここは尼崎で唯一の曹洞宗の寺院で、近年改築され被害もあまりなく立派な姿を見せています。おとなり本興寺さんは被害甚大で、塀は崩れ、山門を入るとあちこち修復をしていました。
国・県等の重要文化財指定を多く有し、市内に現存する寺院としては最大の規模であり、またハトのお寺としても親しまれています。
重層の屋根に鳳凰を停めた甘露寺は300年を経た本堂を、平成3年に改築したばかりなのに、かなりの被害を受けました。長遠寺の重要文化財の多宝塔は無事でした。佐々成政の墓がある法園寺、神崎遊女ゆかりの如来院、節分の日狂言が上演される大覚寺等々、どのお寺も被害を受けました。寺町の誇れる景観を一日も早く取り戻し、にぎわう時を待っています。 (山神一子)   戻る

あとがき

尼崎医療生協・広報紙「にじと健康」に掲載していました「尼の散歩道」が約17年を費やし100回を迎えるに当たり、この度出版の運びとなりました。

11年前、つたない文章ではありますが37回分を冊子にまとめ第1回の自費出版をしました。その時の表紙の色紙を書いて下さった岡山地朗さん(当時百歳)は他界され時の流れを感じます。当時は100回迄も続くとは、考えもしませんでした。ただ読者の皆様に励まされ今日までやってきました。

尼崎市の名所、旧蹟も昨年の阪神淡路大震災で残念なことに殆どの所が被害をうけ、現在復興中といったところです。行政・市民の協カで一日も早い復興を祈らずにはいられません。

十数年の取材で、駆け巡った私の感想は、尼崎は歴史と文化が香り、庶民的で暮らしよい街だとわかった事です。正直言って東京で生まれ、30年前縁あって尼崎に嫁いで来た頃は、阪神工業地帯の中心地で公害の街というイメージが強く、特に私が住んでいる出屋敷は決してきれいとは言えない街でした。そんな街でも歴史はたくさんありました。駅前再開発の施工で、すっかりイメージチェンジをしました。

この度のささやかな冊子は、広報紙面の縮小などで読みにくいところもありますが、尼崎の文化の発展に少しでもお役に立てればと思っています。皆様のご支援を賜りまして、出版出来ました事を感謝致し、厚くお礼申し上げます。戻る